「MANAしんぶん」サイト復旧しています

MANAしんぶん:http://www.manabook.jp 復旧しました

おわび:10日ほどぼくのメーンサイト『MANAしんぶん』http://www.manabook.jpが破談状態にありましたが、10月17日よりお名前ドットコムのドメイン更新手続きが完了し、復旧しました。MANAへのご心配いただき多くのメールをいただきました。ご心配をおかけし、MANAサイトを通じてホームページサイトを開いている方や、常連アクセスをいただいている方々におわび申し上げます。このドメインもけっこう浸透しているのがまた確認でき、「うっかり」もできないことに気づきました。

今後とも、内容充実に努めますので、よろしくご後援のほどお願いします。

MANA:なかじまみつる

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MANAしんぶん サイト一時閉鎖中のおしらせ

みなさまへのおわび

MANAのうっかりミスのため「MANAしんぶん」サイト、http://www.manabook.jpのドメイン更新手続きを忘れておりました。現在復旧手続き中ですので、1週間ほどおまちください。

MANA:中島 満

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江戸前の海―埋め立て前の現古「東京湾」の藻場干潟の姿を探ろう

埋め立て前の現古「東京湾」の藻場干潟の姿を探ろう

江戸前の海はこんなにも豊かな漁場だった!!

「東京湾漁場図」を読み解き、東京湾のいまを考える勉強会を開催します―ぜひご参加ください

MANAも参加して、かねてより画策してきた〔「東京湾漁場図」を読み解き、東京湾のいまを考える勉強会〕を9月6日の日曜日に東京海洋大学で開催することになりました。講師には、「江戸の釣り」や「江戸釣魚大全」の著者で、科学ジャーナリスト・釣魚史研究家の長辻象平さんをはじめ、東京湾岸をフィールドに研究を続けてきた民俗学や考古学、そして現在藻場干潟の再生活動を続けてこられたかたがたにコメンテーターとして加わってもらって、残暑の午後半日の暑いトークショーになるはずです。

『「里海」って何だろう?』を考える重要なテーマがこの勉強会には含んでいます。

呼びかけ人の名前一覧を含んだ申込書付きのお知らせ文は

「Announce_090906_final4.pdf」をダウンロード

からお読みください。

また「東京湾漁場図」については、MANAの里海ブログ「泉水宗助「東京湾漁場図」ついにWEB公開」

http://satoumi.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-3371.html

をご覧ください。

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「東京湾漁業図を読み解き、東京湾のいまを考える会」ご案内
主催:「東京湾漁場図」を読み解き、東京湾のいまを考える会
共催:東京海洋大学江戸前ESD協議会
 東京湾の環境をよくするために行動する会(略称:東京湾をよくする会)
開催期日と時刻:2009年9月6日(日曜日)午後1時~5時(開場11時30分)
会場:東京海洋大学(品川キャンパス)大講義室(200名程度の収容が可能)
   交通手段:http://www.kaiyodai.ac.jp/info/access/access.htmlを参照してください。
予定プログラム:
○ 開会(13:00) 開会挨拶:林しん治(呼びかけ人代表)
○ 講演(13:15~15: 00)
① 東京湾漁場図に含まれた情報を読む―漁場図の成立と桜田勝徳:
  尾上一明氏(浦安市教育委員会)
② 江戸の釣り書「何羨録」を読む―江戸前の海はどんな姿だったのだろう:
  長辻象平氏(「江戸の釣り」著者・産経新聞社論説委員)
③ 明治期に記録された東京湾の魚介類相―農商務省水産局「東京湾漁場調査報告」と「漁場図」に描かれている現代へのメッセージ:西野雅人氏(魚類考古学研究・千葉県文化財センター)
○ 東京湾をどうする現場からのメッセージ(15:15~15:45)(10名ほど)
○ 総合討論:(15:45~16:50):質疑応答・意見のとりまとめ。
○ 閉会挨拶(16:50~17:00):河野博(東京海洋大学江戸前ESD協議会代表)
費用負担等:東京湾漁場図原図縮小複写及びその解説など資料代(1000円)を徴収予定。
事務局:中島満(Fax:03-3319-3137、E-mail:CBA02310@nifty.com

なお、「お知らせ文」には、もりこめなかったのですが、当日の開場の展示スペースには、

【企画展示】

①東京湾漁場図・何羨録など東京湾と漁業や釣り関連の原図・複写資料。

②現在までに発行・公開された東京湾関係の書籍・報告書・パンフなど資料。

③フリー展示コーナー(「あなたの足元にある・あった東京湾の姿をデジカメで撮影してコメントを添えて貼り付けてください。写真でなくても資料や昔の姿を写した画像や映像でもけっこうです」―東京湾に現存する藻場干潟のようすを、自然海岸・人口海岸・コンクリート護岸にかかわらず何でも知らせてください)

という内容の展示を、会場のスペースのゆるす限りしてみたいと思っています。

また漁場図入りチラシ(PDF版)も、準備中です。完成しましたら、送ります。

ぜひ、皆様のご協力をいただきながら、勉強会が盛り上がりを見せるような進行をしていきたいと思います。

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まな出版企画(MANAしんぶん)
中島 満
〒165-0025 東京都中野区沼袋1-5-4
℡:03-3319-3127 Fax:03-3319-3137
Mail:CBA02310@nifty.com
URL:http://www.manabook.jp
Blog:http://satoumi.cocolog-nifty.com/blog/
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両口屋是清の広報季刊誌「いとをかし」第5号「氷」特集に載りました

氷室から繙く氷の文化(川村和正)/江戸のアイスロード―献上氷を運ぶ飛脚たち(中島満)

Itookasi090701no5hyousi名古屋の老舗お菓子屋さん「両口屋是清」が発行する季刊「いとをかし」第5号(2009年夏号・7月1日発行)特集「氷」に、依頼され、氷についての文章を、奈良の川村和正さんと一緒に寄稿しました。

巻頭には、尊敬する荒俣宏大先生の「甘党男子の甘美な生活」というエッセイが載り、お菓子の伝統を支え続けてきた日本の食品製造技術や、伝統芸能やくらしといった文化を紹介する記事を併催し、夏のテーマとして「氷」を特集している。

同誌第5号の目次は次のとおりです。

「甘党男子の甘美な生活」荒俣宏

「通筥(かよいはこ)のつぶやき:寛永より十一代、笛方の流儀を伝承」藤田六郎兵衛

「越川禮子さんに聞く―『江戸しぐさ』に学ぶ共生の哲学」聞き手・篠田尚久(両口屋是清社長)

【特集】氷

  「氷室から繙(ひもと)く氷の文化」川村和正

  「江戸のアイスロード―献上氷を運ぶ飛脚たち」(中島満)

  「氷の神秘―中谷宇吉郎が残したもの」(神田健三)

  「清冽な水に幾度も晒して生まれる白いダイヤ『吉野葛』」黒川重之

「野尻吉雄の美しきこと―暑さに耐えて、涼を遇する」野尻吉雄

「あなたにとって和菓子とは?―赤井勝・石田節子・宮澤やすみ」

「立札(りゅうれい)の和菓子」

「左党オヤジの甘口入門―雪室で醸される『岩の原ワイン』と夏の和菓子」谷浩志

同誌を購読希望の場合は、両口屋是清各店及び本社(名古屋市中区丸の内三丁目14の23:電話052-961-6811)に連絡すればバックナンバーともに送ってもらえます。

MANAの記事は、「本文(続き)」に載せておきましたので、読みたい方はどうぞ。

MANA(なかじまみつる)

続きを読む "両口屋是清の広報季刊誌「いとをかし」第5号「氷」特集に載りました"

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氷室饅頭(ひむろまんじゅう)―その1

金沢の竹井先生から7月1日に氷室饅頭が届く

Himuromanju090701 「いとをかし」第5号の氷の特集ほか資料を竹井先生に贈る。メールでお礼状が届き、7月1日にあわせて「氷室饅頭」を送ったとのこと。かねてから、一度賞味したいと思っていた氷朔日にちなんだお菓子にめぐりあうことができました。

竹井先生からのメールには、氷室饅頭の由来について次のように記されていました。

 さて、もうすぐ7月1日がきます。金沢では、旧暦6月1日の氷室の日を江戸時代に庶民レべルを含めて盛大に贈答の風習や謡曲の会などの催し等で祝っていました。

Himuromanju09070102  新暦になって、7月1日が氷室の日として継承された祝いの日になっています。

 湯涌温泉の復元氷室による氷室開き(6月30日)や貯蔵雪の市長や知事への7月1日の献上などは、中島さんもお耳にされたことがあるかと思います。

 その氷室の日の金沢の風習に、氷室まんじゅうを食することが地元の方たちの間で一般的におこなわれています。娘の嫁ぎ先に贈る習わしがあったようです。

 歴史的には、明治時代に新保屋という菓子屋が、塩味の餡を使った麦鰻頭を7月1日限定で売り出したのが評判を呼んで、広まったという説があります。新保屋は明治末に廃業しますが、現在は普通の餡を用いた蒸し鰻頭(または酒鰻頭)に赤黄緑などの色をつけたものがこの時期限定で出回ります。

 鰻頭を氷室の日に食するという風習は、江戸時代の文献では確認できませんので、どの程度までさかのぼれるのか不明です。金沢周辺では、6月1日を歯固めの日とか煎り菓子盆として米や氷餅を食する風習が古<からあったそうです。このとき田植えの残り種米を煎って食べることなどから農事に関連していますので、氷室の日のお菓子の売り出しを考えた商売人が、新麦時期でもあるので麦鰻頭へと連想をつなげたのではないかと論ずる方もいます。

 ともあれ、この機会ですので、1 度ぐらいは、金沢の風習に触れていただければと思い、氷室まんじゅうを7月1日に届くように手配しました。ご迷惑でなければ幸いです。

 竹井先生ありがとう。おいしくいただきました。贈っていただいた氷室饅頭は、金沢の老舗お菓子屋さんの「雅風堂」製。白(こしあん)、赤(手亡てぼうあん)、緑(つぶあん)、茶(黒糖・こしあん)の4種類で、いずれもうまかった!写真下の氷室饅頭の説明書きは

氷室饅頭

加賀藩では、宮中の氷室節句のの故事にならい「氷室」の雪を六月一日(現在の七月一日)に将軍家へ献上しました。今では、暑き季節の無病を祈り娘の嫁ぎ先に贈ったり、ご家庭の土産となっています。七月一日は氷室の日です。

とあります。

 MANA(なかじまみつる)

 PS:これを機に、氷室饅頭について、手持ちの資料からその由来をメモにして整理しておくことにしましょう。

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『有明海』ワラスボ漁の写真、「ザ!鉄腕!DASH!」で流れる

ドウキン掻き:懐かしいなあこの写真!Ariakekaiwarasubo62pmigi

日本テレビの「ザ!鉄腕!DASH!」2009年6月14日午後7時からの番組で、当社刊行の『有明海』富永健司写真著(1996年)より「ワラスボ漁」の写真が使用されました。

その土地の様子や郷土料理を体験映像を踏まえて放送する番組で、使用を連絡を受け、富永健司さんの了解の上、了承しました。放送は見ていないのでわからないが、たぶん、60~62ページの「ドウキン掻き」であろう。担当の渡辺さんからの「素材使用申請書」では、この日のテーマは「ご当地調味料を探せ」。ワラスボ掻きをTOKIOのメンバーが体験し、ワラスボや干したワラスボを調味料にした料理を食べている映像が流されたのであろうか。見ておけばよかった。

60ページの「ドウキン掻き」の写真の絵トキには、「藁素坊(ワラスボ)のことをこの地方ではドウキンまたはドウキュウとよぶ。干潟にはカニ穴、ムツ穴、ハゼ穴、アゲマキの穴などがあるが、慣れるとそれらの穴の見分けがつくという。三指の銛を外側に曲げた掻き棒で穴とと穴の中間を掻く。」とある。

Ariakekaiwarasubokagehosi61pmigi また、61ページの「陰干しされるドウキン」(写真下)には「酒肴品として珍重される。ふつうはミソ汁に入れたり、ミソ煮にする。冬から春さきにかけて脂がのってうまい。藁素坊は成長すると潟中に棲息。眼は退化しており、歯は上下とも牙様で、二枚貝のアゲマキなどを殻ごと食べる。鯛に恋してふられ、面相がさらに悪くなった、との話しが各地に残る。」とある。右上の写真上(下)のワラスボのイラストは、魚類学者としての山下弘文さんが描いたものである。山下さんが生きておられたら、「歴史」は変わっていたかもしれない、なんて……ふと思っちゃうなあ。

MANA(なかじまみつる)

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水産増殖研究会

2009年6月6日(土曜)PM1:00「第53回研究会」

TKYU―品川8号館305:水産増殖研究会の今後について

海を開くことと閉じることの意味について:若干話す:あんまり評判はよくなかった。

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中村禮子さんからのお便り―「オーストラリア先住民との出会い」

 京都大学、舞鶴の水産実験場には、MANAが長期取材して、聞き書きをした『若狭の漁師、さかなばなし』(貝井春治郎著)を書くときに、ほんとうに頻繁に出入りした。中村泉さんとは、みょうに気があって、先生は僕の取材したり関心を持っていることに興味を持っていただき、研究室にお邪魔して、数時間話をしたあとは、ご自宅におじゃまをして、またしゃべりまくるという繰り返しをしたことがありました。

 そのおり、お世話になったのが、中村先生の奥様の中村禮子さんでした。中村先生が、京都府漁連の機関誌に連載されていた「やさしい魚類学」(現在も掲載中。なんと)を、何とか本にしようと企画し、その足がかりにと、

http://www.manabook.jp/nakamura-izumi-index.htm

こんなページをつくりましたが、いまだ編集者の怠慢によって実現していません。

 そのTOPページに、中村先生が退官後赴任された―チュニジアでの暮らしぶり交遊録をのせた中村禮子さんの「チュニジア便り」

http://www.manabook.jp/reiko-nakamura.htm

をリンクさせて載せてあります。彼女の文才ぶりをしめすエッセイとして、その後もいろいろな方から、このページにアクセスしてお便りを頂戴しました。

 こんな話の経緯はさておきまして、ひさしぶりに、今年になって中村先生ともお会いし、また奥様とも、偶然私の家の近くに住むことになった娘さんの家でお話をする機会ができました。そのときに、奥様の禮子さんから、オーストラリアに調査にいく仕事の話がありまして、そのレポートを書いてみたい、というのです。

 MANAとすれば願ったりかなったりで、名文家の、禮子さんが、また新しい挑戦をして、その鋭い批評精神で書いてくれる文章を楽しみに待つことにしました。

 4月のある日。メールがきました。「舞鶴よりこんにちわ」と、楽しい話題と、オーストラリア調査取材記が添付されていました。

 ブログとしては少々長いので、読みやすいように、5回にわけて掲載します。

 タイトルは「オーストラリア先住民との出会い」です。どんな話なのか、説明はしません。関心のある方はそれぞれの文章から入ってください。

第1回:アボリジニという言葉は使ってはいけない!?

第2回:心の痛みを持ち続ける人々から発した言葉を聞いた

第3回:握手、そして温もりを感じ、心が通じたと思った一瞬だった

第4回:生活習慣病による短命を惹起させたおおもとにあるもの

第5回:「オーストラリアは私の国です」とジョアンさんは話してくれた

中村禮子さんへの連絡がありましたら、MANA宛メールをいただければアドレスをお教えします。また、ご意見などは、ブログに書き込んでください。(MANA:なかじまみつる)

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オーストラリア先住民との出会い(1)

オーストラリア先住民との出会い

――アボリジニという言葉は使ってはいけない!?

中村禮子(なかむられいこ)(2009年4月投稿)

Reikoblog01sydney シドニー空港に降り立つ

 北半球が春の到来に心を躍らせる頃、南半球は夏の暑さが去り、心地良い秋を迎える。関空や成田から夜の8時から9時の飛行機に乗って約9時間半、翌朝7時か8時にはキラキラ朝日の輝くシドニーの空港に降り立つ。時差は夏の間は2時間、お彼岸を過ぎると冬時間なので、時計を1時間早める。一路南へ向かう飛行機の窓から、東に昇る太陽からの朝焼けを受け、燃え上がるような強烈な赤い大地が西へ西へと果てしなく続き、闇の中からその姿が現れる光景は、正に想像を絶する世界である。このフライトに乗られた方はきっと、その感動を忘れることがないだろう。そして、明るいオーストラリアのことも。

 地図の上からは想像しにくいが、オーストラリアは世界で6番目に大きな国で、大陸の面積は日本の約20倍、アラスカを除くアメリカ合衆国とほぼ同じ面積である。そこに東京都と神奈川県の総人口とほぼ同じ、およそ2,100万人の人々が住んでいる。

 そのオーストラリア大陸の歴史は古く、大陸移動により他の大陸よりも遥か昔に離れたがために、あの大陸には珍しい動物や植物が多い。特別な進化を成し遂げた有袋類 (お腹に袋を持っている動物、コアラ、カンガルー、ワラビー、ポッサム、ウォンバットなど) や単孔類 (総排泄口があり、卵を産み、哺乳をする動物、カモノハシ、ハリモグラなど) また、山火事の多い大陸では、種が火で熱せられないと発芽しない植物など、オーストラリア大陸固有の生物が多いことはよく知られている。

オーストラリア先住民の人々の健康状態調査

 そうした自然体系の中で自然の一員として、特別な文化と生活様式を持って住んでいた人々がオーストラリア先住民である。昔は原住民とか原始人とかいろいろいわれていた人々であり、もともとのオーストラリア人であることは周知の通りで、現在、総人口の2.6%が先住民である。

 私は今回オーストラリア先住民の人々の健康状態調査の、予備調査のためにシドニーに行き、先住民の人々と出会い、交流し彼らの置かれている状況を覗かせてもらう機会を得たので、あまり表には見えにくいオーストラリアについての理解を多くの方々に持っていただきたく、ここに紹介することにした。

Reikoblog06rengaart01  ほぼ定説になっているのは、オーストラリア大陸にインドネシアからニューギニアを経て人類が住み始めたのは、今からおよそ4万~5万年前といわれており、それがオーストラリア先住民(Aboriginal Australian)といわれている人たちである。Aboriginal という言葉はもともとラテン語の“最初からの”という意味の言葉に由来している。

Aborigine:アボリジニという言葉は使ってはいけない!?

 英語のaborigine(アボリジニ)は一般に原住民、先住民、土着民などと訳され、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、南米、北アフリカ、フィンランド、北海道などなど世界の先住民一般をさすが、Aborigine ( Aが大文字の場合) はオーストラリア先住民の意味で、それぞれが辞書にある。

 しかし、今や差別的な意味合いのある言葉を使うことは禁止されているので、英語でAborigineという言葉は使ってはいけないそうで、Aboriginalを使うようにと、担当官に文書の英語を訂正するようにとの指示を受けた。 オーストラリア先住民との出会い(2)につづく

写真(上):シドニーの街をのぞむ

写真(下):レンガ塀に描かれた絵

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オーストラリア先住民との出会い(2)

オーストラリア先住民との出会い

――心の痛みを持ち続ける人々から発した言葉を聞いた

中村禮子(なかむられいこ)(2009年4月投稿)

ゴムブラさんの目は、憎しみの眼差しに変わっていた

Reikoblog02drmutoro_2  彼の有名なイギリス海軍、ジェームズ・クック艦長が始めてオーストラリア大陸に上陸したのは1770年。それを機に、先住民の平和な暮らしが狂い始め、悲劇が初まったと話されるゴムブラさんの目は、憎しみの眼差しに変わっていた。

 シドニーの西約100kmのブルーマウンテンに、家族と住む純粋のオーストラリア先住民であるゴムブラさん(写真左)を訪ねて、いろいろな話を聞いた時のことである。

 ポストドクターの研究で、2年間京大に来られていたケニア人、デビッド・ムトロ博士(写真右)にカウンターパートになってもらい、シドニーで一緒に仕事を進めた。その彼が一緒に昼食でもとりながら、じっくりと話を聞いてはどうかと、アレンジしてくれたので、気安くおしゃべりができたのだ。

私は有色人種でよかった?!

 実は彼らは迫害の歴史を展開してきた白人が大嫌いな上に、普通は先住民の人たちは昔からの虐げられた境遇のため、話の中で自分のことはしゃべりたがらないそうである。とくに混血の人々は心の痛みを持っていると、ゴムブラさんはいわれた。ムトロ博士は東アフリカからの黒人でバンツー族、私どもは黄色人種、お互いに有色人種でよかった。

 ゴムブラさんの奥さんのアビーナさんも一緒に来てくれたのだが、彼女は多くを語らなかったし、写真撮影も拒まれた。

 白人のような皮膚にブロンドの髪をしているので、私には彼女を先住民と見ることができなかった。しかし、どこか底知れぬ物悲しさが漂い、何を話したら笑顔を覗かせてくれるのだろうかと、こちらも大変気を使ったほどだ。それでも、屈託のないゴムブラさんの話で、すっかり安心したのである。

 1770年ごろには、先住民の数は約30万人、長老を中心にした小集団の社会を機軸にして、石器や木器を使い狩猟,採集生活をしながら、タスマニア島からオーストラリア大陸に隈なく住んでいたそうである。その頃には約250の言語が話され700を越える部族がいたということである。

しかし、それから悲劇が始まった

Reikoblog03gonbrasan  しかし、それから悲劇が始まったのである。新しくやってきたイギリス人たちは、すべての自然と自然現象に神が宿るとするアミニズム(霊魂信仰)の考え方による先住民の信仰の対象であり、生活の糧を提供する大地という、土地に対する認識を理解することなく、思いのままに彼らの領域を侵した。

 白人の開拓地に入り込む先住民をイギリス兵が自由に捕獲、殺害する権利を認める法律まで作ったのである。正に驚きに値する人種差別と、人権無視の世界が広がっていた。スポーツハンティングの延長で殺害され、さらには入植者の持ち込んだ病気に対して、充分な免疫を持たない先住民たちは、たちどころに命を落としていった。

 そのため1876年までに、3万7000人いたタスマニアの先住民は絶滅に至り、その結果、先住民人口の90%減少という、想像に絶する事実が記録に残されている。

 また、アメリカの先住民と同様に、保護政策と称して、先住民たちは白人の影響の濃い地域から、内陸の過酷な砂漠地域である保護地域に移住させられた。それは、正に人種隔離政策以外の何ものでもなかった。

先住民の人口減少の理由―殺戮と病気……

 先住民の急激な人口減少を抑え、混血の先住民を保護するため、という名目のもと、Stolen Children (盗まれた子供たち) あるいは Stolen Generation (失われた世代)という言葉で表されている強行政策が1869年から始められた。

 そのための法律が施行され、連邦政府、州政府およびキリスト教会とによって、この政策は一方的に進められた。

 それは本質的には、先住民を野蛮で文化的に劣るとし、その子供たちを進んだ文化の下で、優れた人間として育てるべきであるとの考え方で、キリスト教や白人の文化を植えつけるために行われたのである。そして、子供を強制的に親から引き離し、白人家庭、孤児院、寄宿舎、あるいは強制収容所などに収容し、親には行き先を隠し、本当の親の存在すら教えずに育てるという形で行われた。 (3)につづく

写真上:ゴムブラさんとムトロ博士

写真下:ゴムブラさん(中央右)と筆者中村(中央左)

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