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松江の鱸魚(1)

○「松江の鱸魚」について記した記述メモ

①『酒の肴・抱樽酒話』青木正児著、岩波文庫版、1989。「酒の肴」中「6 鱠」50ページ。

「さて魚鱠は水に恵まれた東南地方特に呉の名物として著われ、鱸魚の鱠が最も名高い。最初にこれを有名にしたのは晋の張翰で、彼は呉郡の人で、斉王に仕えて洛陽におったが、天下の乱れを厭い、秋風の起るを見て、急に呉中の蓴菜の羹と鱸魚の鱠とが食いたくなったと称して、官を辞しで帰郷した(『世説』織鑒篇)。その鱸というのはスズキではなく、むしろナマズに似た一種の魚で、松江の名物とされている。唐代の『南部烟花記』に隋の煬帝の時呉郡から松江の鱸魚を献上したところ、帝が「いわゆる金韲玉膾、東南の佳味である」とほめたと記されている。ところで『大業拾遺』(『太平広記』二三四引く)によるとこの時献上されたのは「鱸魚乾鱠」六瓶であったので、この乾鱠というのは鱠を切るはしから日に晒して乾し上げ、それを瓶に密封して貯えるので、使用に当って水に暫く漬けてから取り出して水をたらすと、まるで作りたての鱠と変らぬようになる。そして鱸魚の鱠は八、九月霜が下りた時、三尺以下のものを取って乾鱠に作るので、霜後の鱸魚は肉が雪の如く白くて腥くないという。鱠の乾物まで製造するに至っては、その盛行のほどが思いやられる。宋代の『春渚紀聞』巻四にいう、呉興(今の浙江省呉興県)の渓魚の美は他郡に冠たるものであるが、郡人が会集するには必ず鱠を切って勧める。その刀を操る者を「鱠匠」と名づけると。けだし専門の職であったわけである。また南宋の『避暑録話』巻下にいう、往時は南方の食品が北方に行われなかったので、京師(ベン梁。今の河南省開封県)に鱠を切る者がいなかった。梅尭臣の家に老婢があって独りこれを切り得たので、欧陽脩ら南方の人は鱠が食いたくなると鱠を提げて梅の家に往った。梅も魚の佳いのがあると必ず鱠を作って諸人を招いたという。」

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