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あるダイバーショップサイトの意見に感銘を受けました

海は誰のものか?……「地先」の海と「庭先」の公道

Daiverosezaki_1  「漁業権」と「地先権」というキーワードの検索によって、「ブルーアース21小倉」というスキューバダイビングプロショップのスタッフのかたがたが書いているブログに「海はだれのものだろう?」という意見が載っている文章を読みました。

 とてもわかりやすく、ダイビングのプロとしての経験豊富な方なんだなあと、その整理の仕方に、私も勉強になりました。

核心部分だけ引用させていただきました。(添付写真は、静岡県沼津市大瀬崎のダイビングスポットに向かう2人のダイバー。撮影中島)

「Aというダイビング事業者は「日本の海で潜るんだから、航路等ダイビング禁止区域以外はダイビングすることに問題はないし漁協や地元の許可など不要」と考えていたとします。
 Bという地元の方(主に漁師)は「先祖から守ってきた地先の海なので、地先権があるので地元の許可を取ってから潜るべき」と考えているとします。
 ※地先権とは
   江戸時代以来の1村専用漁場の慣習から来た考え方です。
   この考え方により現在の共同漁業権が発生しています。
   よって、C漁業共同組合の共同漁業権内の海域でD漁業共同組合の組合員は漁業操業できません。
   また当然、D漁業共同組合の共同漁業権内の海域でC漁業共同組合の組合員は漁業操業できません。
 AとBの考え方は相反する考え方になります。

 以下は私の考え方になります。
 では、どちらが正しいかと考えるとどちらも正しいと個人的には思っています。
 Aの考え方の通り、日本の海なので、航路等ダイビング禁止区域以外はダイビング実施することには基本的には問題はないと思います。実際、裁判でも漁業権は共同漁業権内での排他的漁業操業を認めているのであって、海域での海面占有権を有するものではないという判例が出ています。
 では、だからといって海面を利用する他者(例えば漁師や釣り人や船舶等)を無視してダイビングを実施すれば必ずトラブルや事故が起こります。あくまで、漁業権は共同漁業権内での排他的漁業操業を認めているのであって、海域での海面占有権を有するものではないと言ってますので、ダイバー・漁師・釣り人・船舶など皆が個々の主張しルールなき無法地帯に海面&海中をしてしまえば大変なことになります。
 よって、Bという考え方も考えておく必要があるのです。
 地元の綺麗な海に行って潜らせて頂くという謙虚な考え方もやはり必要なはずです。海岸やトイレ清掃等は地元の方々が日々あるいは定期的に行っている場合も多々あります。そのことを訪れるダイバーは忘れてはいけないはずです。
 もし、自分の自宅の前の公道で定期的に訪れて、ぺちゃくちゃしゃべって多少なりとも汚して帰ったとしたら、気分はよくないはずです。ですから、AもBも考え方は必要なのです。訪れるダイバーや地元の方や他の海面利用する方々との協調やルール作りは必要なはずなのです。
 しかし、これは主義主張が各々違いますからだれも率先して調整を図ろうとはしたがりませんし、新しいダイビングポイントの開拓にはものすごい時間と労力がかかります。
 私も約3年前から北九州から日帰り圏内で行ける北風が吹いても強いダイビングポイントを大分県内で開拓しようと何度となく地元関係機関や関係者に足を運びました。
 最初は相手にもされない状況でしたが、私の考えを伝えひとりまたひとり話を聞いていただくようになりました。
 大分県内のその地域では昨年より、ダイビングを開始し最初は反対の方も多くいましたが(今でも反対の方はいらっしゃると思います)、地元との共存共栄と大切にしている地先の海を潜らせていただく謙虚な考え方(具体的に言えば、買い物や食事は地元で行い、定期的に海岸・海中・トイレ清掃を行う等)により共存共栄できるようになってきました。」

 そのとおりなのです。法律で説得しようという考えでは、基本的に海という「だれのものでもない」自然領域の利用の問題は、解決が難しいのです。この文章をまとめられた筆者の「takaki」さんの、おっしゃるとおり、海という場所を「自分の自宅の前の公道で定期的に訪れて、ぺちゃくちゃしゃべって多少なりとも汚して帰ったとしたら、気分はよくないはずです。」という出来事に置き換えてみればよくわかります。

 本来の「地先」という考え方は、法律以前に、人々の暮らしの私的領域の境界を超えた「庭先」とか「裏路地」とか、そういう公共域の利用に置き換えてみればよくわかりますね。

 自宅の前の道路のような公共域だけれど、そのエリアをそこに住んでいる住人が掃除をしたり、草むしりをしたり、犬のウンチを取り払ったり(マナー違反の後始末をするのは胸くそは悪いけれど)しなければ、日々の暮らしを気持ちよくすごせないという「気持ち」が前提の行為なのです。

 海も同じなのだと思います。地先の浜や海は、漁業の利用のためのゾーンという以前に、そこに長く住んできた住民にとっての庭先の気持ちがまずあるのだとおもいます。つまり、住民の集まりが、集落や、村や町になるのですが、あくまで、そこで暮らしやすい条件を整えるために、庭先の公的エリアは、人任せではなく、まず自分でできることは管理しよう、ということです。

その住民の住む地域ごとに、個人のルールと、地域のみんなのルールとが、長年かけて庭先や地先の海の地域のルールを築き上げてきた、その蓄積の結果が、法律と同じような効力を持ったり、ある部分のルールは、法律として規定をされることになったものということなのではないでしょうか。

By 中島満:MANA

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コメント

最後のまとめおかしくないですか?
自分には地先の考え方を正当化しているように思えるのですが?本題がずれてません?地先が無くてもそれを管理する人たちがいることを考え尊重すべきと考えるべきということですようね?
自分は地先の考え方には反対ですが、その土地に住んで管理している人たちのことを尊重すべきという考え方には賛成です。
<自分の考え>
地先はそこで長くやっていれば他を排除して良いような考え方を招くのだけだと思います。あくまでも、海はみんなの物で特定の人の物ではありません。自分の権利(漁業権)を逸脱して権利を行使することには反対です。地先の考え方は権利(漁業権)の拡大解釈に繋がるので反対です。

投稿: シマ | 2007年8月27日 (月) 23時18分

シマ様
コメントをいただきありがとうございます。
とてもするどいご意見で、シマさんの主張もそのとおりであろうとおもいます。
ただ、「地先」とか「庭先」という場合の、「誰のものでもない」(公有)水面をかんがえるとき、利用や管理に関する地域の慣習と漁業法で定められている「漁業権」とは、常に同じものではありえませんし、漁業権は漁業を営む以外に排他的な権利の行使はできません。地域の慣習というばあいにも、それが、漁業(魚介藻の採捕など)に関する慣習であるばあいと、日常のくらしや祭礼で利用する場合の慣習(慣行)とも性格は異なります。
私が、この文章の中で語っているのは、日常のくらしや祭礼などの利用の慣習に関しても、もっと注目する必要があるということなのです。
海ではないですが、個人の自宅の家の庭や門のすぐ前の公道(市道や町道や河川敷や土手のような場所としましょう)に、ごみが棄ててあったり、犬のウンチが放置されていた場合に、いつも、いつも管理者に通報して、撤去するように公の管理に任せっぱなしにするでしょうか。その汚れ具合やその範囲にもよりますが、普通であれば、庭先(庭の所有者の所有する境界から境界までの、日本であれば10から20メートル程度の間)は、その庭の持ち主個人がはいて掃除をしたり、ウンチを拾って洗ったりして、見つけたときにきれいにしたほうが、気持ちがよいので、そうするでしょう。お隣の庭先までは、それはしません。そういう公のスペースの利用の仕方は、法律の権利や法律に準じる慣習的ルールという「規範」にはかかわらず、日常行われています。
あそのこの庭先はいつもきれいね、とかあの官舎のまわりは、いつもゴミが放置されてキタナイね、とか、日常のくらしのレベルで、判定や評価のシアイから、おせっかいも含めて、マチの公的スペースの清潔感の保持は、意外にも図られていることがあります。
誰のものでもないスペースの管理や利用は、そのスペースに個人の地先や庭先の利用の日常的な常識的な優先順位を考慮せずに、誰もがその優先順位を与えない完全平等主義にしてしまうと、かえって、そのスペースがうまく管理できずに、荒れてしまうことにつながりかねないということもおきます。
それじゃあ、国や自治体が厳格な管理の下で、そのスペースを管理できるか、というと、くまなく、個人の庭先や畑の先まで目を届かせることが出来るかというと、机上の理論的には数値的に「可能」をいえても、現実には、出来っこありません。
この現実には利用の管理についてできっこない、だれのものでもない自然領域にかかるスペースを、現在の現在まで、庭先や地先のつながりの中で、うまく機能させてやってきたのが、日本の海に関する管理利用システムなのです。
ここをただ、排他的な権利につながるから庭先の常識的な優先順位を、それは法律的な権利に発展するから認めてはダメだという考え方に結びつけることは、利用と管理のルールをどうしたらよいかを考えるときの、ひとつの「誤解」に近い混同であるばあいがよくあるので、そこは気をつけなければいけないのです。
法律でがんじがらめにして、窮屈な誰のものでもない自然領域の総合管理を国や地方自治体が行うというのは、実は絵に書いた餅であることは、戦後の国土総合開発計画という公共事業による開発計画利用の歴史で、めちゃめちゃなことになるということは、すでに歴史が明らかにしていることなのです。
ことばを変えていっていても中身は変わらないことが、最近、よく国の法制度制定や改訂にあらわれるので、自由を謳歌して、自由平等が万全であると盲目的に信じ込んでいると、国のそういうごまかしの自然領域の利用計画に、良心的な市民は、まんまとごまかされ、利用されることになるので、これもまた良く見極めることが必要です。
そういうことを、考えるためにも、地先や庭先の利用者の利用意識をかえって強める地域主義の実践課題を私たちは負わされているのでしょう。
誰のものでもない自然領域の利用や管理を、市民の手に取り戻そうと考えるのなら、公官に任せた広域的な総合的な管理行政(地域と地域住民の意見を取り入れていますというのが、どれだけ、現実感に薄いものであるかは、最近の河川計画行政をみるだけでもお分かりいただけるのではないでしょうか……)に依存することなく、地域の関係する住民(流域や沿海域などの)の「地域権」の機能評価の見直しなど再評価をすべきなのではないか、と考えて、漁業権や入会権の勉強を続け、またその延長線上でコモンズの考え方は、現代社会経済にどのようにいかせるか、というテーマから、「ローカルルール」の存在とその現実的な役割について提起を続けております。
いつも長い返信になってしまうのですが、ご容赦ください。
このご質問と私の返信は、とても大切なテーマを含んでいるように感じられますので、ブログ本文に書き直して載せようとおもいます。

投稿: | 2007年8月28日 (火) 15時28分

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