サンマはいつから「秋刀魚」と書くようになったのか?(2)
江戸時代の文献に「秋刀魚」の文字が見つからない
まず、サンマの漢字表記「秋刀魚」の文字はいつ頃の文献から現れだしたのかを調べてみましょう。
とりあえず(1)でふれたとおり、手持ちの資料と、公設図書館、ネットライブラリー・データベースを使って、原典探索して、該当個所を抜き出したものを、
鱵:15画[箴]|鰶:11画[祭] |
に載せましたので、引用句等は、それらにリンクさせる形で書いていきます。
結論から言えば、ずばり「秋刀魚」とはじめて表記してサンマにふれた文献は、現在のところ見つかりませんでした。ただし、なぜ見つからなかったのかを含め、おおよそ見当がつきましたので、お話します。
(1)まず、現在までのところ「秋刀魚」を、文献としてはじめて表記した記録は、『水産彙考』(明治14年。1881年。織田完之著)です。この書の冒頭「凡例」に、
一、和名のみにて漢字の当たるものを見ざる。「サンマ(三摩)」「バカ(馬珂)貝」の類は、音を仮りててこれを通ずるのみ。「サンマ」を、シマサヨリと称し、[箴](シン)の字を用うるは謬れり。[箴]は針嘴魚(シンシギョ)にて長嘴なり。三摩を秋刀魚(シュウトウギョ)と云えるは拠處(キョショ)なし。鰶(サイ)を三摩に当てるも非なり。鰶はコノシロなり。バカ貝を沙虱(サシツ)と云うも亦信認し難し。本邦にありて漢土になきものも多かるべければ、強て牽合を須〔モチ〕いず。別に水産名彙の一書を収録せり。まさに追刻して遺欠(イケツ)を補わんとする。 〔MANA:筆者によりカタカナをひらがなに、一部現代表記に直してあります。〕
と書いてあります。「処拠なし」ということは、それまでに、「秋刀魚」を記していたことをさすのですから、使用頻度は別にして、見つかっていないだけで、何かに記されているはずです。その「何か」は、おそらく、新聞記事のような文章ではないかと想像していますが、わかりません。
ただ、わたしが、この資料の記述に信憑性と、サンマが漢字表記される由来をたどるカギが隠されていると考えるのは、それなりの理由があります。
(2)それは、『水産彙考』という本の刊行経過と役割り、そして、著者の織田完之(おだかんじ)という人物が、明治維新後に果たしてきた明治政府における産業育成を進めた農水産行政において果たしてきた行跡への高い評価と影響力を前提にしているからです。織田完之は、天保13年(1842)三河国高須郡(現在の愛知県岡崎市福岡町居屋敷)に生まれ、医学を学んだ後、幕末の尊皇攘夷組織「天誅組」の組織者の一人、松本奎堂(まつもとけいどう)の私塾に入り師事し、運動に走った。「維新後は、明治4年に大蔵省記録寮から内務省勧業寮に転じて…、さらに農商務省の設置とともに同省農務局に奉職、農政・経済・教育・勧業等の振興策を論じ、みずからも印旛沼開疏事業等に奔走」(「農政史家織田完之と若松県政」若松史学研究復刊第27号・28号、松尾正人著)人物であり、内務省任官まえに吏員として勤めた若松県官員(現在でいえば福島県庁)時代に、知己となった河原田盛美の水産局吏員として全国水産普及行脚(教育・勧業のための講演・講義・指導)や日本水産誌を、金田帰逸とともに産業育成(「水産製品誌」)分野を担当し業績を残す大きな影響を与えた人物でもあったのです。
(3)サンマと秋刀魚の話から、近代水産業振興に多大な貢献をした、織田完之、河原田盛美に話が飛ぶのも、飛びすぎのようですが、実は、二人(に代表される明治勸農行政:産業博覧会を一例とする)の合作というべき、重要な著作『水産小学』という、初等教育教科書の刊行(明治15年)に取り上げられた、魚貝名称の記述方針とかかわりを持つことにふれたいからなのです。(かきかけです)MANA
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