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松江鱸魚(2)

『私の魚博物誌』内田恵太郎著(1979年)239~240pより

魚のいわゆる「博物誌」や「エッセイ」の本のなかで、木村重「魚紳士録」とならんで珠玉の書であろう。田中茂穂の『食用魚の味と栄養』などの諸作とどうよう、専門の魚類・動物学・分類学を背景として、専門外の教養の学の範囲を超えた質を、フィールドワークによる経験知を交えて現代に伝えてくれる。実はこの種の本は、意外と少ないのである。

○松江鱸魚(しょうこうのろぎょ)備忘資料。以下引用原文。

鱸 スズキと松江鱸魚

 晋の張翰(ちょうかん)が官途について都にいたとき、秋風が起こるのをみて急に揚子江下流の故郷呉の地のジュンサイの吸物と鱸魚のナマスの味を思い出し、官を辞して故郷に帰ってしまったという故事は、名利を卑しんで情節を尊ぶ中国の思想にかなったものとみえ、以来、「秋風鱸魚鱠」という意味の詩句はあげきれないくらい多い。この鱸は日本のスズキと同一種で、漢字魚名が両国同一種を指す少ない例のひとつである。白鱸、銀鱸という用例も同じくスズキを指している。

 スズキはスズキ科に属する沿岸魚で、日本全国、朝鮮、中国に広く分布する。海で産卵する海魚ではあるが、餌となる魚を求めて川に入り、水量の多い大河をかなり上流までのぼるので、川で漁獲されることも多い。したがって、中国の詩文に出て来るスズキはほとんど川魚として扱われている。

 さて、ここに松江鱸魚という魚がある。蘇東彼の『後赤壁賦』の「薄暮網をあげて魚を得たり。巨口細燐、かたち松江之鱸のごとし」という句で有名であるが、網でとれた魚は松江の鱸に似ていたというのだから、松江の鱸そのものであったか、似てはいるが別の魚であったかその辺のことははっきりしない。ただ、揚子江産で、スズキに似た別の魚というのはちょっと思い出せない。松江は揚子江下流の地で、古来スズキの名産地である。

 ところで、中国で現在松江鱸魚と呼んでいるのは、スズキとはまったく違う別の魚で、四鰓鱸ともいう。冬至の前後産卵前の腹に卵のある季節がもっとも美味で、鍋料理が名物である。この魚はドンコのほおにトゲをはやしたような姿をしていて、大きさは十五センチぐらい、やや黄色みを帯びた褐色で暗褐色の雲形の斑紋がある。口は大きいがウロコはない。とれは、カジカ科に属するヤマノカミという魚で、日本では九州有明海に注ぐ筑後川、矢部川の下流にだけ分布する特産魚だが、朝鮮、中国にはかなり広く分布する。日木産の魚でこれに近いものに、川魚のカジカカとカマキリがある。カジカは石川県金沢の名物ゴリ料理の主体になっているマゴリであり、カマキリは福井県九頭竜川の名産として福井のアラレガコ料理の主体アラレガコである。両種とも日本国内の分布はかなり広い。筑後川のヤマノカミ(土地ではヤマンカミという)は雑魚として土地のものが知っているだけで、まったく利用されていない。松江鱸魚そのものであるから、久留米あたりの名物料理にしてもよさそうなものだ。もっともあまり多くはとれないが……。

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伴信友の狩谷棭斎評について―その2

伴信友のエキ齊批判にはウラがある―中傷癖のあった信友の嫉妬心からでた捏造、についても考慮しておかなければならない

 信友がエキ齊に下した「和漢の古書ヲ好候て、校合考證をむねといたし、就中漢学ノ方長じ候様子、勿論古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少も見せぬ風に相聞候也。(村田春門宛、信友書翰、文政11.2.13)」という侮蔑そのものといってよい批判には、予想通り、やはりウラがあった。

 エキ齊が、信友の考証を「箋注和名類聚抄」に引用している、その丁寧な引用の仕方を見れば、考証家としての信友を評価していたことが読み取れるのであり、信友のエキ齊評を真に受けてはいけないと直感したが、その予測どおりだった。

 梅谷文夫著『狩谷棭斎』(かりやえきさい)(吉川弘文館・人物叢書、1994年)に、そのウラの真実が描かれている。

 ことは、古辞書の『新撰字鏡』(しんせんじきょう)が法隆寺から流出した天治本の巻二、及び巻四の書写に関わり、信友の棭斎批判の書簡が書かれたことが、わかる。箋注和名類聚抄第八巻を読解上も重要なことなので、梅谷氏記述をそのまま引用しておこう。

六 天治本『新撰字鏡』書写(梅谷著『狩谷棭斎』229p~)

前略……(エキ齊の)旅の目的は、実は、吉田神社権禰宜鈴鹿筑前守連胤(つらたね)所蔵のいわゆる天治本、天治元年(1124)鈔『新撰字鏡』巻第二・巻第四両巻の書写であった。……中略……

天治本『新撰字鏡』十二巻は、現在、宮内庁書陵部に所蔵されているが、巻第二・巻第四以外の十巻が摂津国西成(にしなり)郡伝法村の岸田忠兵衛方に所蔵されていたことは、当事は未だ全く知られていなかった。忠兵衛所蔵の十巻を世に現わしたのは連胤の功績である。棭斎の死後二十一年目、安政三年のことであることは既述した。
『新撰字鏡』は、十二巻本の天治本のほかに、一巻本のいわゆる節録本が伝えられている。『新撰字鏡』の資料価値が広く認識されるようになったのは、既述のような経緯で、節録本の一本、いわゆる村田本が発見され、それが機縁となって、その後、丘岬俊平(おかさきとしひら)(木綿屋忠左衛門)が、節録本の別の一本を底本とし、校異を付して、享和三年正月に刊行したいわゆる亨和本や、塙保己一校訂『群書類従』巻第四百九十ヒ、いわゆる類従本が流布したからである。類従本の刊年は詳らかにしない。節録本は、十二巻本から、和訓を記載する文字を選び出して編集した本であるらしい。国学者の多くは、その和訓によって古語を徴し得るという点に、特に注目したのである。節録本に載せる撰者昌住の序によって、『新撰字鏡』の原型は十二巻であること、流布している節録本は、その一部を伝えるものに過ぎないことに気づいた学者たちが、節録本の態様から、十二巻本には莫大な古語が和訓として保存されているはずと考え、その出現を待望したのは当然であろう。

天治本が法隆寺から流出し、巻第二・巻第四両巻が連胤の所蔵に帰したのは文政七年春のことらしい。無窮会専門図書館神習文庫所蔵の村田春門の日記『楽前日記』によれば、当時、大坂高津町に寓居していた本居派の中島豊足が、近ごろ法隆寺から流出したとして、巻第二の模写を同派の春門に見せたのは、同年四月二十七日のことであったという。また、春門を介して本居宣長の霊前に名簿を捧げ没後門人となった伴信友が、豊足模写の巻第二の首尾の写しを見て、伯家(白川家)門人衣関内膳(伊都伎)を介して、大坂新天満町の医師岩田三谷に豊足模写の巻第二の重写を依頼したのは、翌八年八月のことであったという。三谷の手に余る依頼であったからか、信友の願いは果たされなかったという。
棭斎が詳報をつかんだのは同十年三月以後のことであったのではないかと考える。この年三月、吉田神社権禰宜鈴鹿河内守隆啓が出府し、同月十七日に、平田篤胤とともに屋代輪池を訪問したことが、篤胤が養子鉄胤に命じて記録させたという『気吹舎日記』によって、判明している。三年前に流れた天治本流出の噂の真相を、輪池は隆啓に尋ねているにちがいないと考えるからである。恐らく、棭斎は、輪池から詳報を得て、直ちに山田錦所に取り持ちを頼み入れたのであろう。
棭斎が、このたびの西遊において、連胤所蔵の天治本両巻の書写に成功したことは、『楽前目記』文政十一年二月十三日の条に節録されている同年正月七日付で信友が春門に与えた次の書簡によって推察し得る。

一、新撰字鏡云々。三右衛門は津軽屋と申す家名にて、雅には狩谷之望(ママ)、漢名棭斎と称へ候。先年、霊異記の考証を著述・印行いたし候。類写(従)本の霊異記にも、此の男校行(ママ)にて、奥書之れ有り候。和漢の古書を好み候て、校合・考証をむねといたし、就中、漢学の方、長じ候様子、勿論、古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少しも見せぬ風に相聞こえ候也。此の男が写し帰り候由、いかさま字鏡取りいだし、浪華へと承け及び候ひき。功を得候は珍重に候へども、とても世には出だすまじと存じ候へば、ますますほしく相成り候。
引用するのも気色が悪い書簡であるが、やむを得ない。
信友は、「世には出だすまじ」と言っているが、『気吹舎日記』同年十一月三日の条に、「棭斎へ新撲字鏡古珍本返す」と書記されており、篤胤は、検斎が書写した巻第二、巻第四を借り受けていることが判明する。また、『古史本辞経』に、「世に得がたかりし、新撰字鏡の詳本、字類抄、浄蔵法師伝などを始め、西に走り東にはしり、苦心して取り出でたる書ども、まず彼レ(信友)に写させ置きたるが多く」と述べているので、篤胤は、棭斎書写本を重写し、それを信友に貸して再重写させていたことが判明する。信友が「多米宿禰ためのすくね本系帳考附、新撰姓氏録本編・抄本考」の注に、「おのれ、前に、新撰字鏡の天治元年に写せる奥書ありて、法隆寺一切経の墨印捺したる占本の [墓(土→手)]もを得て」と記す「古本の[墓(土→手)]」とは、その再重写本のことと推察される。信友は、間接的とは言え、棭斎の学恩に浴した一人なのである。
「いかさま字鏡取りいだし」は、棭斎が崇蘭館所蔵『新修本草』巻第十五を書写した時の逸話をもとに、信友が捏造した話と考える。「人にふけらかして」も、蔵書家に対する嫉妬心から出た中傷と考える。渡辺金造氏が『国学者の評判記』に紹介している鼻毛の長人(信友)の『なぞ\/』には、高田(小山田)与清を評して、「やたらに本を集め、擁書倉と名づけて人に誇り、珍しき本を買ひ集めて、人に見せずふけらかす」と述べている。与清が蔵書を広く学者の利用に供していたことを知っていて、こういう評をしているのである。信友の中傷癖を立証しようとすれば、材料には事欠かないが、あまりにもむなしい作業であるので打り切ることにする。信友は、篤胤の重写本を借り受けた時、それが棭斎書写本の重写であることを聞いたはずである。学者ならば、本の来歴を、必ず確かめていると考えるからである。いわれなく棭斎を中傷したことを、信友は恥じたであろうか。信友は、四年後の天保二年五月八日に、棭斎所蔵の室生寺旧蔵本『日本国見在書目録』 を披閲している。

 以上、梅谷氏にことわりりなく長い引用をしたが、引用しておく価値のある箇所である。昔の人の書簡についての、個人名を記載した批判には、その批判した人側からだけの情報で、批判された人の「本質」には迫ることはできない、ことの恒例になっている。もし、エキ斎に関心がなく、伴信友にだけ関心のあるひとが、「その一」に記した本だけを読んで、エキ齊を理解すること我欲ありそうなことなのである。

 書簡集や、古文書を読解するときに、現代に生きる読み手としてキモに銘じておかなければいけないことなのである。

MANA:なかじまみつる

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