オーストラリア先住民との出会い(2)
オーストラリア先住民との出会い(2)
――心の痛みを持ち続ける人々から発した言葉を聞いた
中村禮子(なかむられいこ)(2009年4月投稿)
ゴムブラさんの目は、憎しみの眼差しに変わっていた
彼の有名なイギリス海軍、ジェームズ・クック艦長が始めてオーストラリア大陸に上陸したのは1770年。それを機に、先住民の平和な暮らしが狂い始め、悲劇が初まったと話されるゴムブラさんの目は、憎しみの眼差しに変わっていた。
シドニーの西約100kmのブルーマウンテンに、家族と住む純粋のオーストラリア先住民であるゴムブラさん(写真左)を訪ねて、いろいろな話を聞いた時のことである。
ポストドクターの研究で、2年間京大に来られていたケニア人、デビッド・ムトロ博士(写真右)にカウンターパートになってもらい、シドニーで一緒に仕事を進めた。その彼が一緒に昼食でもとりながら、じっくりと話を聞いてはどうかと、アレンジしてくれたので、気安くおしゃべりができたのだ。
私は有色人種でよかった?!
実は彼らは迫害の歴史を展開してきた白人が大嫌いな上に、普通は先住民の人たちは昔からの虐げられた境遇のため、話の中で自分のことはしゃべりたがらないそうである。とくに混血の人々は心の痛みを持っていると、ゴムブラさんはいわれた。ムトロ博士は東アフリカからの黒人でバンツー族、私どもは黄色人種、お互いに有色人種でよかった。
ゴムブラさんの奥さんのアビーナさんも一緒に来てくれたのだが、彼女は多くを語らなかったし、写真撮影も拒まれた。
白人のような皮膚にブロンドの髪をしているので、私には彼女を先住民と見ることができなかった。しかし、どこか底知れぬ物悲しさが漂い、何を話したら笑顔を覗かせてくれるのだろうかと、こちらも大変気を使ったほどだ。それでも、屈託のないゴムブラさんの話で、すっかり安心したのである。
1770年ごろには、先住民の数は約30万人、長老を中心にした小集団の社会を機軸にして、石器や木器を使い狩猟,採集生活をしながら、タスマニア島からオーストラリア大陸に隈なく住んでいたそうである。その頃には約250の言語が話され700を越える部族がいたということである。
しかし、それから悲劇が始まった
しかし、それから悲劇が始まったのである。新しくやってきたイギリス人たちは、すべての自然と自然現象に神が宿るとするアミニズム(霊魂信仰)の考え方による先住民の信仰の対象であり、生活の糧を提供する大地という、土地に対する認識を理解することなく、思いのままに彼らの領域を侵した。
白人の開拓地に入り込む先住民をイギリス兵が自由に捕獲、殺害する権利を認める法律まで作ったのである。正に驚きに値する人種差別と、人権無視の世界が広がっていた。スポーツハンティングの延長で殺害され、さらには入植者の持ち込んだ病気に対して、充分な免疫を持たない先住民たちは、たちどころに命を落としていった。
そのため1876年までに、3万7000人いたタスマニアの先住民は絶滅に至り、その結果、先住民人口の90%減少という、想像に絶する事実が記録に残されている。
また、アメリカの先住民と同様に、保護政策と称して、先住民たちは白人の影響の濃い地域から、内陸の過酷な砂漠地域である保護地域に移住させられた。それは、正に人種隔離政策以外の何ものでもなかった。
先住民の人口減少の理由―殺戮と病気……
先住民の急激な人口減少を抑え、混血の先住民を保護するため、という名目のもと、Stolen Children (盗まれた子供たち) あるいは Stolen Generation (失われた世代)という言葉で表されている強行政策が1869年から始められた。
そのための法律が施行され、連邦政府、州政府およびキリスト教会とによって、この政策は一方的に進められた。
それは本質的には、先住民を野蛮で文化的に劣るとし、その子供たちを進んだ文化の下で、優れた人間として育てるべきであるとの考え方で、キリスト教や白人の文化を植えつけるために行われたのである。そして、子供を強制的に親から引き離し、白人家庭、孤児院、寄宿舎、あるいは強制収容所などに収容し、親には行き先を隠し、本当の親の存在すら教えずに育てるという形で行われた。 (3)につづく
写真上:ゴムブラさんとムトロ博士
写真下:ゴムブラさん(中央右)と筆者中村(中央左)
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