伴信友の狩谷棭斎評について―その2

伴信友のエキ齊批判にはウラがある―中傷癖のあった信友の嫉妬心からでた捏造、についても考慮しておかなければならない

 信友がエキ齊に下した「和漢の古書ヲ好候て、校合考證をむねといたし、就中漢学ノ方長じ候様子、勿論古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少も見せぬ風に相聞候也。(村田春門宛、信友書翰、文政11.2.13)」という侮蔑そのものといってよい批判には、予想通り、やはりウラがあった。

 エキ齊が、信友の考証を「箋注和名類聚抄」に引用している、その丁寧な引用の仕方を見れば、考証家としての信友を評価していたことが読み取れるのであり、信友のエキ齊評を真に受けてはいけないと直感したが、その予測どおりだった。

 梅谷文夫著『狩谷棭斎』(かりやえきさい)(吉川弘文館・人物叢書、1994年)に、そのウラの真実が描かれている。

 ことは、古辞書の『新撰字鏡』(しんせんじきょう)が法隆寺から流出した天治本の巻二、及び巻四の書写に関わり、信友の棭斎批判の書簡が書かれたことが、わかる。箋注和名類聚抄第八巻を読解上も重要なことなので、梅谷氏記述をそのまま引用しておこう。

六 天治本『新撰字鏡』書写(梅谷著『狩谷棭斎』229p~)

前略……(エキ齊の)旅の目的は、実は、吉田神社権禰宜鈴鹿筑前守連胤(つらたね)所蔵のいわゆる天治本、天治元年(1124)鈔『新撰字鏡』巻第二・巻第四両巻の書写であった。……中略……

天治本『新撰字鏡』十二巻は、現在、宮内庁書陵部に所蔵されているが、巻第二・巻第四以外の十巻が摂津国西成(にしなり)郡伝法村の岸田忠兵衛方に所蔵されていたことは、当事は未だ全く知られていなかった。忠兵衛所蔵の十巻を世に現わしたのは連胤の功績である。棭斎の死後二十一年目、安政三年のことであることは既述した。
『新撰字鏡』は、十二巻本の天治本のほかに、一巻本のいわゆる節録本が伝えられている。『新撰字鏡』の資料価値が広く認識されるようになったのは、既述のような経緯で、節録本の一本、いわゆる村田本が発見され、それが機縁となって、その後、丘岬俊平(おかさきとしひら)(木綿屋忠左衛門)が、節録本の別の一本を底本とし、校異を付して、享和三年正月に刊行したいわゆる亨和本や、塙保己一校訂『群書類従』巻第四百九十ヒ、いわゆる類従本が流布したからである。類従本の刊年は詳らかにしない。節録本は、十二巻本から、和訓を記載する文字を選び出して編集した本であるらしい。国学者の多くは、その和訓によって古語を徴し得るという点に、特に注目したのである。節録本に載せる撰者昌住の序によって、『新撰字鏡』の原型は十二巻であること、流布している節録本は、その一部を伝えるものに過ぎないことに気づいた学者たちが、節録本の態様から、十二巻本には莫大な古語が和訓として保存されているはずと考え、その出現を待望したのは当然であろう。

天治本が法隆寺から流出し、巻第二・巻第四両巻が連胤の所蔵に帰したのは文政七年春のことらしい。無窮会専門図書館神習文庫所蔵の村田春門の日記『楽前日記』によれば、当時、大坂高津町に寓居していた本居派の中島豊足が、近ごろ法隆寺から流出したとして、巻第二の模写を同派の春門に見せたのは、同年四月二十七日のことであったという。また、春門を介して本居宣長の霊前に名簿を捧げ没後門人となった伴信友が、豊足模写の巻第二の首尾の写しを見て、伯家(白川家)門人衣関内膳(伊都伎)を介して、大坂新天満町の医師岩田三谷に豊足模写の巻第二の重写を依頼したのは、翌八年八月のことであったという。三谷の手に余る依頼であったからか、信友の願いは果たされなかったという。
棭斎が詳報をつかんだのは同十年三月以後のことであったのではないかと考える。この年三月、吉田神社権禰宜鈴鹿河内守隆啓が出府し、同月十七日に、平田篤胤とともに屋代輪池を訪問したことが、篤胤が養子鉄胤に命じて記録させたという『気吹舎日記』によって、判明している。三年前に流れた天治本流出の噂の真相を、輪池は隆啓に尋ねているにちがいないと考えるからである。恐らく、棭斎は、輪池から詳報を得て、直ちに山田錦所に取り持ちを頼み入れたのであろう。
棭斎が、このたびの西遊において、連胤所蔵の天治本両巻の書写に成功したことは、『楽前目記』文政十一年二月十三日の条に節録されている同年正月七日付で信友が春門に与えた次の書簡によって推察し得る。

一、新撰字鏡云々。三右衛門は津軽屋と申す家名にて、雅には狩谷之望(ママ)、漢名棭斎と称へ候。先年、霊異記の考証を著述・印行いたし候。類写(従)本の霊異記にも、此の男校行(ママ)にて、奥書之れ有り候。和漢の古書を好み候て、校合・考証をむねといたし、就中、漢学の方、長じ候様子、勿論、古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少しも見せぬ風に相聞こえ候也。此の男が写し帰り候由、いかさま字鏡取りいだし、浪華へと承け及び候ひき。功を得候は珍重に候へども、とても世には出だすまじと存じ候へば、ますますほしく相成り候。
引用するのも気色が悪い書簡であるが、やむを得ない。
信友は、「世には出だすまじ」と言っているが、『気吹舎日記』同年十一月三日の条に、「棭斎へ新撲字鏡古珍本返す」と書記されており、篤胤は、検斎が書写した巻第二、巻第四を借り受けていることが判明する。また、『古史本辞経』に、「世に得がたかりし、新撰字鏡の詳本、字類抄、浄蔵法師伝などを始め、西に走り東にはしり、苦心して取り出でたる書ども、まず彼レ(信友)に写させ置きたるが多く」と述べているので、篤胤は、棭斎書写本を重写し、それを信友に貸して再重写させていたことが判明する。信友が「多米宿禰ためのすくね本系帳考附、新撰姓氏録本編・抄本考」の注に、「おのれ、前に、新撰字鏡の天治元年に写せる奥書ありて、法隆寺一切経の墨印捺したる占本の [墓(土→手)]もを得て」と記す「古本の[墓(土→手)]」とは、その再重写本のことと推察される。信友は、間接的とは言え、棭斎の学恩に浴した一人なのである。
「いかさま字鏡取りいだし」は、棭斎が崇蘭館所蔵『新修本草』巻第十五を書写した時の逸話をもとに、信友が捏造した話と考える。「人にふけらかして」も、蔵書家に対する嫉妬心から出た中傷と考える。渡辺金造氏が『国学者の評判記』に紹介している鼻毛の長人(信友)の『なぞ\/』には、高田(小山田)与清を評して、「やたらに本を集め、擁書倉と名づけて人に誇り、珍しき本を買ひ集めて、人に見せずふけらかす」と述べている。与清が蔵書を広く学者の利用に供していたことを知っていて、こういう評をしているのである。信友の中傷癖を立証しようとすれば、材料には事欠かないが、あまりにもむなしい作業であるので打り切ることにする。信友は、篤胤の重写本を借り受けた時、それが棭斎書写本の重写であることを聞いたはずである。学者ならば、本の来歴を、必ず確かめていると考えるからである。いわれなく棭斎を中傷したことを、信友は恥じたであろうか。信友は、四年後の天保二年五月八日に、棭斎所蔵の室生寺旧蔵本『日本国見在書目録』 を披閲している。

 以上、梅谷氏にことわりりなく長い引用をしたが、引用しておく価値のある箇所である。昔の人の書簡についての、個人名を記載した批判には、その批判した人側からだけの情報で、批判された人の「本質」には迫ることはできない、ことの恒例になっている。もし、エキ斎に関心がなく、伴信友にだけ関心のあるひとが、「その一」に記した本だけを読んで、エキ齊を理解すること我欲ありそうなことなのである。

 書簡集や、古文書を読解するときに、現代に生きる読み手としてキモに銘じておかなければいけないことなのである。

MANA:なかじまみつる

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伴信友の狩谷棭斎評について

『伴信友の思想―本居宣長の学問継承者』森田康之助著(1979年。ぺりかん社)より

○伴信友:ばんのぶとも:「若狭藩士山岸惟智(これとも)を父として安永二(一七七三)年二月二十五日出生」……「文政四年四十九歳を以て至仕して隠居の身となったが、」……「隠居して一切の交役から自由となった信友は、爾来、その志をもとから好むところの学問に注ぎ、著作に考証・校勘に全力傾け、弘化三〔一八四六〕年十月十四日、京都の所司代屋敷に歿する。七十四歳であった。」(8p)

○「棭斎と信友:考証学者として知られた人物に、狩谷棭斎がある。信友とその生存時をほぼひとしくするこの棭斎は、その家の号を「実事求是書屋」といった。源順の『和妙類聚抄』の『箋注』二十巻は、その学問の特色を最もよく伝え、比較考証はまた精細を極めている。ではあるが、次に掲げる信友の棭斎評は、信友自らの持するところが、そもいかなるものであったかを、自ら語るものとして注目される。

三右衛門(棭斎)は津軽屋と申家名にて、雅には狩野(マヽ)之望(マヽ)、漢名棭斎と稱候。先年霊異記の考説ヲ著述印行いたし候。類写本霊異記にも、此男校行にて奥書有之候。和漢の古書ヲ好候て、校合考證をむねといたし、就中漢学ノ方長じ候様子、勿論古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少も見せぬ風に相聞候也。(村田春門宛、信友書翰、文政一一・二・一三)

云々というがそれで、信友の気概にあっては、棭斎の考証と、自らが心がける学問、即ち校勘を、その重要なる手順とする学問とは、その性格を全く異にするものあるを云わんとしているのである。信友は棭斎とひとしなみの考証学者として数まえられることをば、いさぎよしとはしていなかったのである。」(183~184p)

MANAメモ:(1)「狩谷棭斎」は、現代のメールで、「棭」を打ち込み送信すると、文字化けが起きる恐れがあるのでご注意のこと。MANAは、ホームページ上では、「狩谷エキ斎(かりやえきさい:安永4〈1775〉~天保6〈1833〉)」と、カタカナ混じり表記で記している。

(2)伴信友のエキ齊に対するここに引用した厳しい批判評は、やはりそうなのかと本書を読みながら赤線をひき付箋をつけた。この書の著者も、おそらく、この引用の箇所のニュアンスから、信友に同意をして書いているようだ。いわゆる、近世の国学者と称される学者たちの総意としてよいのかもしれない。

(3)それにひきかえ、エキ齊本人の国学者にたいする評価は、信友がエキ齊に下している「和漢の古書ヲ好候て、校合考證をむねといたし、就中漢学ノ方長じ候様子、勿論古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少も見せぬ風に相聞候也。(村田春門宛、信友書翰、文政11.2.13)」と、ほとんど蔑みとしかとれない見下した評価を、知ってかしらずか、箋注倭名類聚抄のエキ齊箋注文において頻繁に、信友の考証を引用している。エキ齊の、直接の信友評は、未見だが、おそらく、引用文の箇所や正確さから、信友や宣長の文章への信頼はあついものがあるように感じられるので、この「侮蔑」と「信頼」という相互評価の落差に、エキ齊やエキ齊らとともに研究、考察の交換を続けてきた「漢学」や「漢方医」学者への「国学者」に共通した、対立感情、あるいは批判の根があるように思える。このあたりは、「国学者」としては、アウトサイダー的存在であった、林国雄への宣長学派たちの評価とも共通するところがあるのかもしれない。

MANA:なかじまみつる

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魚のウオとイオの呼びわけについて

「箋注倭名類聚抄」の現代語訳注より―巻第八「龍魚部」(5)魚

和名類聚鈔(京本) 文字集略云、魚〔5〕語居反、宇乎、俗云伊乎、}水中連行蟲之惣名也、〔読み下し文〕魚 文字集略は云う。魚{語居の反。魚(うお)。俗に伊乎と云う。/水中連行するものにして、蟲の惣名なり。

エキ齊箋注{○下総本は、「和名」二字あり。『日本書紀』「神代紀」に、魚を「宇乎」(うを)と訓む。 「紆嗚」(うを)は又、継体紀春日皇女歌に見える。「伊乎」( いを)は、『栄花物語』「楚王の夢」巻、「御裳着」(おんもぎ)の巻に見える。}{○下総本に之の字なし。伊勢広本も同じ。エキ斎按う。『周禮』「考工記」「梓人(しじん)」注に、「連行魚属」と云う。阮氏の蓋本(文字集略)は此による。『説文』は「魚、水蟲也、象形、魚尾は燕尾と相似る」とある。} 

●MANA訳注:『箋注倭名類聚抄』現代語訳注参照「魚」

「魚」を、ナ、トト、ウヲ、イヲと呼ぶ、それぞれの呼びわけについて、本居宣長の整理を『古事記伝』〔岩波文庫版(一)~(四)〕に見てみることにしよう。

)(4-19p)鳥遊は、登理能阿曽備(トリノアソビ)と訓べし。…中略…野山海川に出て、鳥を狩(カリ)て遊(アソ)ぶをいふなり。…中略…是レ狩(カリ)をも遊(アソ)びと云証なり。…中略…是レもなほ魚釣(ナツル)を云なるべし。○取魚は、師の須那杼理(スナドリ)と訓れつるぞ宜しき。

)(4-57p)○真魚咋は、麻那具比(マナグヒ)と訓べし。魚(ウヲ)を那(ナ)と云は、饌(ケ)に用る時の名なり。【只何となく海川にあるなどをば、宇乎(ウヲ)と云て、那(ナ)とは云ハず。此ノけぢめを心得おくべし。】書紀ノ持統ノ巻に、八釣魚(ヤツリナ)てふ蝦夷(エミシ)の名の訓注に、魚此ヲ云灘(ナト)。万葉五【二十三丁】に奈都良須(ナツラス)、【魚釣(ナツラス)なり。】これら釣魚(ツルウヲ)は、饌(ケ)の料なる故に、那(ナ)と云り。…中略…さて菜(ナ)も本は同言にて、魚にまれ菜にまれ、飯に副(そへ)て食(ケフ)物を凡て那(ナ)と云なり。…中略…万葉十一【四十二丁】に、朝魚夕菜(アサナユフナ)、これ朝も夕も那(ナ)は一ツなるに、魚と菜と字を替て書るは、魚菜に渉る名なるが故なり。さて其ノ那(ナ)の中に、菜よりも魚をば殊に賞(メデ)て、美(ウマ)き物とする故に、称(ホメ)て真那(マナ)とは云り。【故レ麻那は魚に限りて、菜にはわたらぬ名なり。今ノ世に麻那箸(マナバシ)麻那板(マナイタ)など云も、魚を料理(トトノフ)る具に限れる名なり。】さて、真魚咋(マナグヒ)と云名目(ナ)は中昔の記録ぶみなどに、魚-味と云ヒ、今ノ俗に魚-類の料-理と云ほどのことゝ聞ゆ。

)○如魚鱗所造之宮室(イロコノゴトツクレルミヤ)。魚鱗は伊呂古(イロコ)と訓べし。和名抄に、唐韻ニ云ク、鱗ハ魚ノ甲也。文字集略ニ云ク、龍魚ノ属ノ衣ヲ曰鱗ト。和名以呂久都(イロクツ)。俗云伊呂古(イロコ)。字鏡には、鰭ハ魚ノ背上ノ骨、又伊呂己(イロコ)とあり。【和名抄に、以呂久都と云るは心得ず。又伊呂己をば、俗云とあれど、俗には非じ。さて又これを、今は宇呂古と云フ。此ノ宇(ウ)と伊(イ)とは、何れか古へならむ。魚をも、中昔には伊袁(イヲ)と云へれども、今は多く宇袁(ウヲ)と云を、古言にも宇袁(ウヲ)と云り。然れば、鱗も、中昔にこそ伊呂古(イロコ)とのみ云ヘれ、古事は宇呂古(ウロコ)なりけむも知リがたし。されど古書に然云るを未ダ見ざれば、姑ク和名抄に随ひて訓るなり。】

)(筑摩書房本居宣長全集第十一巻)三十一之巻○御食之魚は、美氣能那(ミケノナ)と訓べし、【又魚を、麻那(マナ)とも訓べし、上巻に、真魚(マナ)とあると同じければなり、】大神の御饌(ミケ)の料の魚なり、【 又御食(ケ)を、太子へ係(カケ)て、太子の御饌の料の魚と見ても通(キコ)ゆ、天皇は凡て己レ命の御うへにも御某(ミナニ)と詔ふこと常なれば、太子も准へて御自(ミミヅカラ)も御気(ミケ)と詔ふべし、されど於レ我(アレニ)とあるよりのつゞきを思ふに、なほ大神の御食の魚と見る方まさるべし、】魚は、食ノ料にするをば、凡て那(ナ)と云例なり、【 此事上に既に出ヅ、】さて如此我(カクアレ)に御食の魚(ナ)給へりとある、一言に、大神の御恵(ミメグミ)を深く辱(カタジケナ)み喜(ヨロコ)び謝(マヲ)し賜ふ意おのづから備(ソナ)はりて聞ゆ、【 古語は簡(コトズクナ)にして、かく美(メデタ)がりき、かの書紀の漢(カエア)ざまの潤色(カザリ)の語の多くうるさきと思ひ比(クラ)ぶべし、】

by MANA:中島 満(C)

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書紀・古事記に登場する魚の名を冠した人名の整理

古代史に登場する魚名冠人名の整理

シビやコノシロやフナの名前のついた人名が日本書紀や古事記に載る。狩谷エキ斎「箋注倭名類聚抄」の読解と現代語訳を進める中で、原典確認の作業の過程で、該当箇所の注記だけではなく、一覧にしておく必要を感じた。

(1)鮪:箋注倭名類聚抄第八巻:〔11〕鮪 食療経云、鮪、{音委、}一名黄頬魚、{之比、}{○「武烈紀」の訓注に「鮪 、此を慈寐(しび)と云う」。:平群臣鮪(へぐりのおみしび)

(注1)武烈紀:日本書紀巻第十六「武烈天皇」影媛(かげひめ)、曾(いむさき)に真鳥大臣(まとりのおほおみ)の男(こ)鮪(しび)に姧(をか)されぬ。{鮪、此(これ)をば玆寐(しび)と云ふ。}太子の期り……以下略。

(注2)鮪:しび:①岩波文庫版「日本書紀(三)」注六(147p):清寧記〔古事記、下つ巻清寧天皇〕には「平群臣之祖、名志毘臣」とあり、菟田首(うだのおびと)の女、大魚(おふを)を歌垣で顕宗天皇と争って殺されたとある。記紀いずれの形が本来のものか明らかでないが、津田左右吉は……中略……書紀編纂の際に顕宗天皇についての物語を武烈天皇の話にすり換えたのであろうとしている。②同内容について「古事記伝」第43(清寧)(吉川弘文館増補全集本第四)2119~2134p参照。

(注3)補注○:「シビ」と訓むことについては、箋注倭名類聚抄第八巻〔14〕鮫の注14-13(a)(b)において エキ齊によって、サメのサンスクリット語源説に関連してシミ≒シビの訓みとのかかわりに触れているので参照されたい。

(2)-1コノシロ:箋注倭名類聚抄〔38〕[制]:孝徳紀人名、訓注:『日本書紀』巻第二十五「孝徳天皇」:大化二年三月条:塩屋(連)[制]魚{[制]魚、此云、挙能之盧。}

(2)-2コノシロ:同[制]:〔25〕[覃]の注(25-3)[台](えい)を載せた日本書紀齋明紀に「塩屋連[制]魚」(しおやのむらじこのしろ)をのせ、[制]魚を「このしろ」と訓みを与えている。また、同記載前に「物部朴井連鮪」(もののべのえいのむらじしび)(粛清される有馬皇子の居る家を兵で取り囲む件)の人名を載せる。

                                 by MANA中島 満

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