漁業権・入会権・里海関連英語表記について

必要にせまられて、漁業法・漁業権、入会権、里海関連の英語表記を整理してみました。メモとして記しておきます。

このほうが適切というご意見があれば、コメントにぜひ書き込んでいただければうれしく思います。

出典……(1)The Fisyeries Law,The Overseas Fisheries Cooperation Foundation,1993/(2)M.A. McKean, "Management of Traditional Common Lands (iraichi) in Japan", in Proceedings of the Conference on Common Property Resource Management (1989), pp. 533-589 (A revised and updated version appears in Making the Commons Work, 63-98.) .*Making the Commons Work: Theory, Practice, and Policy, edited by Daniel Bromley, David Feeny, Margaret A. McKean, Pauline Peters, Jere Gilles, Ronald Oakerson, C. Ford Range, and James Thomson (1992), San Francisco: Institute of
Contemporary Studies .

漁業法(ぎょぎょうほう):The Fisheries Law:Law No.267 of 1949:(1)

漁業権(ぎょぎょうけん):fishing right:(1)

  定置漁業権(ていちぎょぎょうけん):set-net fishing right

  区画漁業権(くかくぎょぎょうけん):demarcated fishing right

  共同漁業権(きょうどうぎょぎょうけん):common fishing right

  入漁権(にゅうぎょけん):common-of-piscary right

入会権(いりあいけん):common right:(2)

  入会(いりあい):common

  入会地(いりあいち):common land

以降補足していきます。

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資料:大正期の漁業用天然氷の利用

天然氷の利用(小山亀蔵「和船の海」より)

 大正の初期になると、かづ船(鰹漁船)もだんだん大きくなって、漁場も沖に出るようになりましたが、鮮度を保つ方怯がなく、一日か二日しか沖に居ませんでした。そのうち、三重県ぶねや静岡船が魚群を追って回って(回航して)来るようになり、しかもこれらの船は「いわし」を沢山持って三日も四日も沖におり、釣った魚に氷をかけて来ては、いい値段で取引するのでした。

 これを見た当地の船主達は早速船に氷を積ませることに奔走し、初めは寒中に堤に張った氷を切取ったものを買入れ、氷倉を建ててかくまい(蔵って)しておく工夫をしました。製板(製材所)の挽っ屑(ひっくず。おがくず)を厚く敷きその上に荷馬車で運んで来た一個十四、五貫の角氷を重ね、また挽っくずを掛けては氷を重ねるという工合に並べ、かづ船どきになるとこれを取出して船に積みました。船ではこれを玄能で打砕いて使ったのですが、初めにはこの挽っ屑をろくに取らないで使用したため、瓶(魚槍)に入れたかつおが擦れ、、肉が良くとも「ぎんめえ(銀前)。かつおの肌」が悪くなり、それに増し氷もしないためうまくゆきませんでした。

 だんだんとこれに気がつき、積む時は水で洗い落し、沖では増し氷を一日に一回も二回もやるように工夫を重ねたものでじた。

 気仙沼に氷がなく、天然氷を積むため宮古では津軽石という所から運んで来たと聞かされたもので、各船とも必ず氷を積むようになりました。

 角氷のうちは左右の瓶に入れ、揺れても動かないように「きめ」をかったりしましたが、二、三年後には天然氷を砕き、砕氷で大量に積み、かつおを入れた瓶の中の温度を計っては増し氷するなど改良されました。温度計の利用や鮮度を保つ方法は昭和の初め、かご屋(屋号、前出)が焼津方面から買入れた福久丸(二十噸、四十馬力)の附属品から教えられたものでもありました。

 やがて、今の七十七銀行のあたりに(南町三丁目一番一号)気仙製氷会社が建てられ、人造氷を仕込むようになり、天然氷はみられなくなっていったのであります。

 長い航海が出来るようになると船の形も変り、帆は補助的なものになり、寝る場所もまた今のように室の形を整えるようになりました。菅留(菅野留太郎氏)が五十噸ほどの于年丸を建造、角十(畠山泰蔵)が九十噸ほどの精良丸を、山三(斎藤福三郎氏)は不動丸を、そして宮井繁太郎氏、木田豊吉氏、村上米蔵氏(以上気仙沼)と唐桑、気仙沼の船主は次々に大型船を建造するようになったものでした。特に畠山泰蔵氏は昭和十一年の秋、徳島の阿波から船頭を頼んで、いまの南洋縄の当地における先駆者となったことを付加えておきます。
(「和船の海」昭和48 年。小山亀蔵著。伊藤富雄、唐桑民友新聞社発行。)

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氷室饅頭(ひむろまんじゅう)―その1

金沢の竹井先生から7月1日に氷室饅頭が届く

Himuromanju090701 「いとをかし」第5号の氷の特集ほか資料を竹井先生に贈る。メールでお礼状が届き、7月1日にあわせて「氷室饅頭」を送ったとのこと。かねてから、一度賞味したいと思っていた氷朔日にちなんだお菓子にめぐりあうことができました。

竹井先生からのメールには、氷室饅頭の由来について次のように記されていました。

 さて、もうすぐ7月1日がきます。金沢では、旧暦6月1日の氷室の日を江戸時代に庶民レべルを含めて盛大に贈答の風習や謡曲の会などの催し等で祝っていました。

Himuromanju09070102  新暦になって、7月1日が氷室の日として継承された祝いの日になっています。

 湯涌温泉の復元氷室による氷室開き(6月30日)や貯蔵雪の市長や知事への7月1日の献上などは、中島さんもお耳にされたことがあるかと思います。

 その氷室の日の金沢の風習に、氷室まんじゅうを食することが地元の方たちの間で一般的におこなわれています。娘の嫁ぎ先に贈る習わしがあったようです。

 歴史的には、明治時代に新保屋という菓子屋が、塩味の餡を使った麦鰻頭を7月1日限定で売り出したのが評判を呼んで、広まったという説があります。新保屋は明治末に廃業しますが、現在は普通の餡を用いた蒸し鰻頭(または酒鰻頭)に赤黄緑などの色をつけたものがこの時期限定で出回ります。

 鰻頭を氷室の日に食するという風習は、江戸時代の文献では確認できませんので、どの程度までさかのぼれるのか不明です。金沢周辺では、6月1日を歯固めの日とか煎り菓子盆として米や氷餅を食する風習が古<からあったそうです。このとき田植えの残り種米を煎って食べることなどから農事に関連していますので、氷室の日のお菓子の売り出しを考えた商売人が、新麦時期でもあるので麦鰻頭へと連想をつなげたのではないかと論ずる方もいます。

 ともあれ、この機会ですので、1 度ぐらいは、金沢の風習に触れていただければと思い、氷室まんじゅうを7月1日に届くように手配しました。ご迷惑でなければ幸いです。

 竹井先生ありがとう。おいしくいただきました。贈っていただいた氷室饅頭は、金沢の老舗お菓子屋さんの「雅風堂」製。白(こしあん)、赤(手亡てぼうあん)、緑(つぶあん)、茶(黒糖・こしあん)の4種類で、いずれもうまかった!写真下の氷室饅頭の説明書きは

氷室饅頭

加賀藩では、宮中の氷室節句のの故事にならい「氷室」の雪を六月一日(現在の七月一日)に将軍家へ献上しました。今では、暑き季節の無病を祈り娘の嫁ぎ先に贈ったり、ご家庭の土産となっています。七月一日は氷室の日です。

とあります。

 MANA(なかじまみつる)

 PS:これを機に、氷室饅頭について、手持ちの資料からその由来をメモにして整理しておくことにしましょう。

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『有明海』ワラスボ漁の写真、「ザ!鉄腕!DASH!」で流れる

ドウキン掻き:懐かしいなあこの写真!Ariakekaiwarasubo62pmigi

日本テレビの「ザ!鉄腕!DASH!」2009年6月14日午後7時からの番組で、当社刊行の『有明海』富永健司写真著(1996年)より「ワラスボ漁」の写真が使用されました。

その土地の様子や郷土料理を体験映像を踏まえて放送する番組で、使用を連絡を受け、富永健司さんの了解の上、了承しました。放送は見ていないのでわからないが、たぶん、60~62ページの「ドウキン掻き」であろう。担当の渡辺さんからの「素材使用申請書」では、この日のテーマは「ご当地調味料を探せ」。ワラスボ掻きをTOKIOのメンバーが体験し、ワラスボや干したワラスボを調味料にした料理を食べている映像が流されたのであろうか。見ておけばよかった。

60ページの「ドウキン掻き」の写真の絵トキには、「藁素坊(ワラスボ)のことをこの地方ではドウキンまたはドウキュウとよぶ。干潟にはカニ穴、ムツ穴、ハゼ穴、アゲマキの穴などがあるが、慣れるとそれらの穴の見分けがつくという。三指の銛を外側に曲げた掻き棒で穴とと穴の中間を掻く。」とある。

Ariakekaiwarasubokagehosi61pmigi また、61ページの「陰干しされるドウキン」(写真下)には「酒肴品として珍重される。ふつうはミソ汁に入れたり、ミソ煮にする。冬から春さきにかけて脂がのってうまい。藁素坊は成長すると潟中に棲息。眼は退化しており、歯は上下とも牙様で、二枚貝のアゲマキなどを殻ごと食べる。鯛に恋してふられ、面相がさらに悪くなった、との話しが各地に残る。」とある。右上の写真上(下)のワラスボのイラストは、魚類学者としての山下弘文さんが描いたものである。山下さんが生きておられたら、「歴史」は変わっていたかもしれない、なんて……ふと思っちゃうなあ。

MANA(なかじまみつる)

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水産増殖研究会

2009年6月6日(土曜)PM1:00「第53回研究会」

TKYU―品川8号館305:水産増殖研究会の今後について

海を開くことと閉じることの意味について:若干話す:あんまり評判はよくなかった。

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2009年4~5月:日記:メモ

2009年5月20日(水):PM2時:石田のり研さんにルノアールで会う。お借りしていた資料返却する。

2009年5月27日(水):PM2時:横浜みなとみらい:水産総合研究センターに行く。顔を出すと、移動で水産庁から今年になって赴任している懐かしい顔に何人も会う。中山さんが監査役。黒萩さんが企画室長。中前理事長に15年ぶり(以上?)ぐらいに会う。東京湾漁場図読み解く勉強会について。

2009年5月29日(木):池田さんにインタビューの件。KBGの都合で、やむなく中止、6月に伸ばしてもらうことを連絡、了承してもらう。

2009年5月31日(日):名古屋に行く:ウイル愛知にて:竹峰さんのお誘いもあり、伊勢湾再生研究プロジェクト・社会系グループ:第5回公開研究会に出席:テーマ「伊勢湾の漁村社会にみるサブシステンス」:13:00~17:00:終了後同所内にて持ち込み形式の「懇親会」参加。同所に宿泊。:発題(1)「伊勢湾の漁業社会の成りたち――聞き取り調査を踏まえて」(仮)川口祐二(エッセイスト、三重県南勢町在住、伊勢湾をはじめ日本各地の漁村を歩き、歴史や漁民らの暮らしを記録):(2)「サブシステンス論の射程―脱開発主義の平和学から」横山正樹(フェリス女学院大学教員、経済学博士、フィリピンを中心にアジア・太平洋地域の環境と開発問題を平和学の見地から研究)*横山氏のプロフィール
 http://kokusai.ferris.ac.jp/cgi-bin/tmpl.cgi?id=20
  http://home.att.ne.jp/wood/akira/ferris/2006/index06.htm
2009年6月1日(月):前日の勉強会の帰り、時間ができたので市内丸の内3丁目の老舗お菓子屋さん「両口屋是清」によりお土産買う。「いとをかし」第5号に寄稿した件で、店長、広報担当氏らに会い、氷朔日にちなむ情報交換する。

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伴信友の狩谷棭斎評について―その2

伴信友のエキ齊批判にはウラがある―中傷癖のあった信友の嫉妬心からでた捏造、についても考慮しておかなければならない

 信友がエキ齊に下した「和漢の古書ヲ好候て、校合考證をむねといたし、就中漢学ノ方長じ候様子、勿論古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少も見せぬ風に相聞候也。(村田春門宛、信友書翰、文政11.2.13)」という侮蔑そのものといってよい批判には、予想通り、やはりウラがあった。

 エキ齊が、信友の考証を「箋注和名類聚抄」に引用している、その丁寧な引用の仕方を見れば、考証家としての信友を評価していたことが読み取れるのであり、信友のエキ齊評を真に受けてはいけないと直感したが、その予測どおりだった。

 梅谷文夫著『狩谷棭斎』(かりやえきさい)(吉川弘文館・人物叢書、1994年)に、そのウラの真実が描かれている。

 ことは、古辞書の『新撰字鏡』(しんせんじきょう)が法隆寺から流出した天治本の巻二、及び巻四の書写に関わり、信友の棭斎批判の書簡が書かれたことが、わかる。箋注和名類聚抄第八巻を読解上も重要なことなので、梅谷氏記述をそのまま引用しておこう。

六 天治本『新撰字鏡』書写(梅谷著『狩谷棭斎』229p~)

前略……(エキ齊の)旅の目的は、実は、吉田神社権禰宜鈴鹿筑前守連胤(つらたね)所蔵のいわゆる天治本、天治元年(1124)鈔『新撰字鏡』巻第二・巻第四両巻の書写であった。……中略……

天治本『新撰字鏡』十二巻は、現在、宮内庁書陵部に所蔵されているが、巻第二・巻第四以外の十巻が摂津国西成(にしなり)郡伝法村の岸田忠兵衛方に所蔵されていたことは、当事は未だ全く知られていなかった。忠兵衛所蔵の十巻を世に現わしたのは連胤の功績である。棭斎の死後二十一年目、安政三年のことであることは既述した。
『新撰字鏡』は、十二巻本の天治本のほかに、一巻本のいわゆる節録本が伝えられている。『新撰字鏡』の資料価値が広く認識されるようになったのは、既述のような経緯で、節録本の一本、いわゆる村田本が発見され、それが機縁となって、その後、丘岬俊平(おかさきとしひら)(木綿屋忠左衛門)が、節録本の別の一本を底本とし、校異を付して、享和三年正月に刊行したいわゆる亨和本や、塙保己一校訂『群書類従』巻第四百九十ヒ、いわゆる類従本が流布したからである。類従本の刊年は詳らかにしない。節録本は、十二巻本から、和訓を記載する文字を選び出して編集した本であるらしい。国学者の多くは、その和訓によって古語を徴し得るという点に、特に注目したのである。節録本に載せる撰者昌住の序によって、『新撰字鏡』の原型は十二巻であること、流布している節録本は、その一部を伝えるものに過ぎないことに気づいた学者たちが、節録本の態様から、十二巻本には莫大な古語が和訓として保存されているはずと考え、その出現を待望したのは当然であろう。

天治本が法隆寺から流出し、巻第二・巻第四両巻が連胤の所蔵に帰したのは文政七年春のことらしい。無窮会専門図書館神習文庫所蔵の村田春門の日記『楽前日記』によれば、当時、大坂高津町に寓居していた本居派の中島豊足が、近ごろ法隆寺から流出したとして、巻第二の模写を同派の春門に見せたのは、同年四月二十七日のことであったという。また、春門を介して本居宣長の霊前に名簿を捧げ没後門人となった伴信友が、豊足模写の巻第二の首尾の写しを見て、伯家(白川家)門人衣関内膳(伊都伎)を介して、大坂新天満町の医師岩田三谷に豊足模写の巻第二の重写を依頼したのは、翌八年八月のことであったという。三谷の手に余る依頼であったからか、信友の願いは果たされなかったという。
棭斎が詳報をつかんだのは同十年三月以後のことであったのではないかと考える。この年三月、吉田神社権禰宜鈴鹿河内守隆啓が出府し、同月十七日に、平田篤胤とともに屋代輪池を訪問したことが、篤胤が養子鉄胤に命じて記録させたという『気吹舎日記』によって、判明している。三年前に流れた天治本流出の噂の真相を、輪池は隆啓に尋ねているにちがいないと考えるからである。恐らく、棭斎は、輪池から詳報を得て、直ちに山田錦所に取り持ちを頼み入れたのであろう。
棭斎が、このたびの西遊において、連胤所蔵の天治本両巻の書写に成功したことは、『楽前目記』文政十一年二月十三日の条に節録されている同年正月七日付で信友が春門に与えた次の書簡によって推察し得る。

一、新撰字鏡云々。三右衛門は津軽屋と申す家名にて、雅には狩谷之望(ママ)、漢名棭斎と称へ候。先年、霊異記の考証を著述・印行いたし候。類写(従)本の霊異記にも、此の男校行(ママ)にて、奥書之れ有り候。和漢の古書を好み候て、校合・考証をむねといたし、就中、漢学の方、長じ候様子、勿論、古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少しも見せぬ風に相聞こえ候也。此の男が写し帰り候由、いかさま字鏡取りいだし、浪華へと承け及び候ひき。功を得候は珍重に候へども、とても世には出だすまじと存じ候へば、ますますほしく相成り候。
引用するのも気色が悪い書簡であるが、やむを得ない。
信友は、「世には出だすまじ」と言っているが、『気吹舎日記』同年十一月三日の条に、「棭斎へ新撲字鏡古珍本返す」と書記されており、篤胤は、検斎が書写した巻第二、巻第四を借り受けていることが判明する。また、『古史本辞経』に、「世に得がたかりし、新撰字鏡の詳本、字類抄、浄蔵法師伝などを始め、西に走り東にはしり、苦心して取り出でたる書ども、まず彼レ(信友)に写させ置きたるが多く」と述べているので、篤胤は、棭斎書写本を重写し、それを信友に貸して再重写させていたことが判明する。信友が「多米宿禰ためのすくね本系帳考附、新撰姓氏録本編・抄本考」の注に、「おのれ、前に、新撰字鏡の天治元年に写せる奥書ありて、法隆寺一切経の墨印捺したる占本の [墓(土→手)]もを得て」と記す「古本の[墓(土→手)]」とは、その再重写本のことと推察される。信友は、間接的とは言え、棭斎の学恩に浴した一人なのである。
「いかさま字鏡取りいだし」は、棭斎が崇蘭館所蔵『新修本草』巻第十五を書写した時の逸話をもとに、信友が捏造した話と考える。「人にふけらかして」も、蔵書家に対する嫉妬心から出た中傷と考える。渡辺金造氏が『国学者の評判記』に紹介している鼻毛の長人(信友)の『なぞ\/』には、高田(小山田)与清を評して、「やたらに本を集め、擁書倉と名づけて人に誇り、珍しき本を買ひ集めて、人に見せずふけらかす」と述べている。与清が蔵書を広く学者の利用に供していたことを知っていて、こういう評をしているのである。信友の中傷癖を立証しようとすれば、材料には事欠かないが、あまりにもむなしい作業であるので打り切ることにする。信友は、篤胤の重写本を借り受けた時、それが棭斎書写本の重写であることを聞いたはずである。学者ならば、本の来歴を、必ず確かめていると考えるからである。いわれなく棭斎を中傷したことを、信友は恥じたであろうか。信友は、四年後の天保二年五月八日に、棭斎所蔵の室生寺旧蔵本『日本国見在書目録』 を披閲している。

 以上、梅谷氏にことわりりなく長い引用をしたが、引用しておく価値のある箇所である。昔の人の書簡についての、個人名を記載した批判には、その批判した人側からだけの情報で、批判された人の「本質」には迫ることはできない、ことの恒例になっている。もし、エキ斎に関心がなく、伴信友にだけ関心のあるひとが、「その一」に記した本だけを読んで、エキ齊を理解すること我欲ありそうなことなのである。

 書簡集や、古文書を読解するときに、現代に生きる読み手としてキモに銘じておかなければいけないことなのである。

MANA:なかじまみつる

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うしぬすっと

年頭丑魚尽くし「うしぬすっと」

 あけましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願いいたします。毎年恒例の年頭の干支魚エッセイをご披露いたします。

 干支「牛・丑」にちなむ魚の名称がどのくらいあるだろうか。思いつくままにあげてみよう。

Uosinusuttokinmouzui_2   ウシノシタは、牛舌魚と書いてウシノシタカレイ、クツゾコ、シタヒラメのこと。靴底、牛の舌といい、どんな魚かすぐ連想がつく。クツゾコは有明海の特産、シタビラメといえばフランス料理の高級素材となる。
 ドジョウをウシドジョウともいう。ウシサワラは、全長2メートルにもなる大型のサワラの一種。オキサワラということもある。味は大味のため商品性は劣る。漢字では「牛馬鮫」。なんという複雑な表現であろうか。

 ゴンズイは、権瑞と書くのが普通のようだが、「牛頭=ごず」からの転化という説もある。牛の頭をした地獄の怪物が牛頭。牛頭馬頭(ごずめず)という馬の顔をした化け物と一対でもののけとなって人間と付き合いをする。背鰭と胸鰭に毒を発する棘(とげ)を持ち、形態もさることながら、棘に触ると腫れるなど毒魚のイメージも、牛頭魚と呼ぶ起源かもしれない。
 このほか、ウシはつかないが、その姿形から漢字をあてて牛尾魚(あるいは牛魚)がコチ、エイの仲間(いずれも細くて長い尻尾状の形をしている)というのも納得がゆく。
 さらにコイ科の淡水魚ウシモッゴなど探せばもっとでてくるだろうが、極めつきの「牛」つき魚名は、なんといっても「ウシヌスット」である。

 「牛盗人」とは、なんとも物騒というか、ユーモラスな名を付けたものだ。ウシザワラやゴンズイの場合もそうだが、牛や馬という名前が俗称に付くと、のっそり、どんちょう、ばかでかいなどなど、あんまりほめられたいいかたにはならないようである。
 ウシヌスットとはどんな魚なのだろう。

 なんのことはない、子供時代に川遊びの相手をしてくれたドンコのことであった。ハゼ科のカワアナゴ、ドンコ、およびカジカ科のカジカを混称して「ドンコ」と呼んでいるが、このなんともユニークな名前が和歌山、岡山における地方名になっていたのである。

 ドンコは、漢字で書けば杜父魚、鈍甲、鈍魚となる。ドンコの同名異称に、ドロボオとする(琵琶湖周辺)呼び方があったり、まったく種は異なるカジカにも地方名で共有したりする。
 数年前仙台に、ハゼのジュズコ釣りという鈎を使わずに釣り上げる漁法を取材したことがある。ゴカイを糸でとおしてリング状にすると自然によれて小豆大のコブがいくつもでき、このコブをのみこんだハゼを引き抜く漁師さんのみごとな技に関心した。そのとき仙台ではマハゼをカジカ、カツカと呼ぶことを知った。ジュズコ釣りは、もともとは鰍釣りといっていた。さらに、本命の魚の餌を横取りするダボハゼのことをドロボウカツカともいうそうである。

 ウシヌスビトは、広辞苑では「無口で動作の遅鈍な人」をいうとある。動作や容貌の似ているハゼ科のドンコやカジカ科のカジカなど、マハゼやヨシノボリなど小型のハゼ科の魚たち、さらに小型の低棲性の川魚(カマツカ、ギギなどにも「カジカ」や「ハゼ」の同名異称の方言と共有する名称が多い)たちには、種を分かつ分類の生物学の世界では通用はしないけれども、人々の暮らしや信仰、子供の遊びをとおして、ひとくくりに同名にしてしまうもうひとつの魚の命名の仕方があるようなのだ。

 地方方言の非常に多いこうしたハゼやカジカ、ドンコの類の共通の名前を持つ魚たちを、いっぱひとからげにして「雑魚(ざこ)」と呼ぼう。南方熊楠が、「ドンコの類魚方言に関する薮君の疑問に問う」という小文のなかで、地方名が同名ゆえに同類に分類した魚類学者の混乱ぶりを嘆いている。南方は、生物学上の分類のためには、人と魚の触れ合いから生じて同名にくくった世界の理解をも必要とするというようなことをいいたかったのかもしれない。こんな魚の理解の仕方を「ザッコロジー」とでも呼ぼうか。

 リバーブルヘッドは、イギリスでカジカのことだが、「川牛頭」、これも干支の魚名に加えてもいいようである。

 注記:だいぶ前に、名前を忘れたPR雑誌に投稿をした原稿に若干手を入れて再録する。ほとんど未発表の文章と同じなので、2009年の年頭サカナエッセイとして載せておくことにしよう。それにしても、もう干支を一巡してしまったことになる。

注:画像は「訓蒙図彙」巻之十四、龍魚より

(C)MANA・なかじまみつる(中島 満)

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「琵琶湖のテナガエビの由来に関する一考察」がおもしろい

原田英司・西野麻知子著「琵琶湖のテナガエビの由来に関する一考察」(琵琶湖研究所所報、21:91-110p) 2004年。
http://www.lberi.jp/root/jp/05seika/syoho_bi/21/21-12.pdf

を読む。近世博物学、本草学から明治大正昭和の魚類学論文までを駆使し、表題のテーマを論述している。

滋賀県琵琶湖・環境科学研究センター
http://www.lberi.jp/root/jp/bkjhindex.htm

のサイトより、公開論文として読めるが、『湖魚考』、『湖中産物図證』の史料価値の大きさに、それぞれ原本のコピーを手元において、自分流の復刻の文章をぼちぼちと、いっこうにすすまぬ作業をしてきたものにとって、現代の視点をもって過去の時代にさかのぼって、事の真相を究明するために、原典に当たって読みこなしていきながら、いくつもの新事実発見をしていく、本論文は、読み終えて、琵琶湖の自然の大きさ、そして、人と琵琶湖のきずなの深さを知ることとなった。ドキュメンタリーが成立するほどの面白さを感じたので、備忘録として、メモを残しておこうと思った。

MANA:なかじまみつる

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伴信友の狩谷棭斎評について

『伴信友の思想―本居宣長の学問継承者』森田康之助著(1979年。ぺりかん社)より

○伴信友:ばんのぶとも:「若狭藩士山岸惟智(これとも)を父として安永二(一七七三)年二月二十五日出生」……「文政四年四十九歳を以て至仕して隠居の身となったが、」……「隠居して一切の交役から自由となった信友は、爾来、その志をもとから好むところの学問に注ぎ、著作に考証・校勘に全力傾け、弘化三〔一八四六〕年十月十四日、京都の所司代屋敷に歿する。七十四歳であった。」(8p)

○「棭斎と信友:考証学者として知られた人物に、狩谷棭斎がある。信友とその生存時をほぼひとしくするこの棭斎は、その家の号を「実事求是書屋」といった。源順の『和妙類聚抄』の『箋注』二十巻は、その学問の特色を最もよく伝え、比較考証はまた精細を極めている。ではあるが、次に掲げる信友の棭斎評は、信友自らの持するところが、そもいかなるものであったかを、自ら語るものとして注目される。

三右衛門(棭斎)は津軽屋と申家名にて、雅には狩野(マヽ)之望(マヽ)、漢名棭斎と稱候。先年霊異記の考説ヲ著述印行いたし候。類写本霊異記にも、此男校行にて奥書有之候。和漢の古書ヲ好候て、校合考證をむねといたし、就中漢学ノ方長じ候様子、勿論古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少も見せぬ風に相聞候也。(村田春門宛、信友書翰、文政一一・二・一三)

云々というがそれで、信友の気概にあっては、棭斎の考証と、自らが心がける学問、即ち校勘を、その重要なる手順とする学問とは、その性格を全く異にするものあるを云わんとしているのである。信友は棭斎とひとしなみの考証学者として数まえられることをば、いさぎよしとはしていなかったのである。」(183~184p)

MANAメモ:(1)「狩谷棭斎」は、現代のメールで、「棭」を打ち込み送信すると、文字化けが起きる恐れがあるのでご注意のこと。MANAは、ホームページ上では、「狩谷エキ斎(かりやえきさい:安永4〈1775〉~天保6〈1833〉)」と、カタカナ混じり表記で記している。

(2)伴信友のエキ齊に対するここに引用した厳しい批判評は、やはりそうなのかと本書を読みながら赤線をひき付箋をつけた。この書の著者も、おそらく、この引用の箇所のニュアンスから、信友に同意をして書いているようだ。いわゆる、近世の国学者と称される学者たちの総意としてよいのかもしれない。

(3)それにひきかえ、エキ齊本人の国学者にたいする評価は、信友がエキ齊に下している「和漢の古書ヲ好候て、校合考證をむねといたし、就中漢学ノ方長じ候様子、勿論古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少も見せぬ風に相聞候也。(村田春門宛、信友書翰、文政11.2.13)」と、ほとんど蔑みとしかとれない見下した評価を、知ってかしらずか、箋注倭名類聚抄のエキ齊箋注文において頻繁に、信友の考証を引用している。エキ齊の、直接の信友評は、未見だが、おそらく、引用文の箇所や正確さから、信友や宣長の文章への信頼はあついものがあるように感じられるので、この「侮蔑」と「信頼」という相互評価の落差に、エキ齊やエキ齊らとともに研究、考察の交換を続けてきた「漢学」や「漢方医」学者への「国学者」に共通した、対立感情、あるいは批判の根があるように思える。このあたりは、「国学者」としては、アウトサイダー的存在であった、林国雄への宣長学派たちの評価とも共通するところがあるのかもしれない。

MANA:なかじまみつる

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