資料:大正期の漁業用天然氷の利用

天然氷の利用(小山亀蔵「和船の海」より)

 大正の初期になると、かづ船(鰹漁船)もだんだん大きくなって、漁場も沖に出るようになりましたが、鮮度を保つ方怯がなく、一日か二日しか沖に居ませんでした。そのうち、三重県ぶねや静岡船が魚群を追って回って(回航して)来るようになり、しかもこれらの船は「いわし」を沢山持って三日も四日も沖におり、釣った魚に氷をかけて来ては、いい値段で取引するのでした。

 これを見た当地の船主達は早速船に氷を積ませることに奔走し、初めは寒中に堤に張った氷を切取ったものを買入れ、氷倉を建ててかくまい(蔵って)しておく工夫をしました。製板(製材所)の挽っ屑(ひっくず。おがくず)を厚く敷きその上に荷馬車で運んで来た一個十四、五貫の角氷を重ね、また挽っくずを掛けては氷を重ねるという工合に並べ、かづ船どきになるとこれを取出して船に積みました。船ではこれを玄能で打砕いて使ったのですが、初めにはこの挽っ屑をろくに取らないで使用したため、瓶(魚槍)に入れたかつおが擦れ、、肉が良くとも「ぎんめえ(銀前)。かつおの肌」が悪くなり、それに増し氷もしないためうまくゆきませんでした。

 だんだんとこれに気がつき、積む時は水で洗い落し、沖では増し氷を一日に一回も二回もやるように工夫を重ねたものでじた。

 気仙沼に氷がなく、天然氷を積むため宮古では津軽石という所から運んで来たと聞かされたもので、各船とも必ず氷を積むようになりました。

 角氷のうちは左右の瓶に入れ、揺れても動かないように「きめ」をかったりしましたが、二、三年後には天然氷を砕き、砕氷で大量に積み、かつおを入れた瓶の中の温度を計っては増し氷するなど改良されました。温度計の利用や鮮度を保つ方法は昭和の初め、かご屋(屋号、前出)が焼津方面から買入れた福久丸(二十噸、四十馬力)の附属品から教えられたものでもありました。

 やがて、今の七十七銀行のあたりに(南町三丁目一番一号)気仙製氷会社が建てられ、人造氷を仕込むようになり、天然氷はみられなくなっていったのであります。

 長い航海が出来るようになると船の形も変り、帆は補助的なものになり、寝る場所もまた今のように室の形を整えるようになりました。菅留(菅野留太郎氏)が五十噸ほどの于年丸を建造、角十(畠山泰蔵)が九十噸ほどの精良丸を、山三(斎藤福三郎氏)は不動丸を、そして宮井繁太郎氏、木田豊吉氏、村上米蔵氏(以上気仙沼)と唐桑、気仙沼の船主は次々に大型船を建造するようになったものでした。特に畠山泰蔵氏は昭和十一年の秋、徳島の阿波から船頭を頼んで、いまの南洋縄の当地における先駆者となったことを付加えておきます。
(「和船の海」昭和48 年。小山亀蔵著。伊藤富雄、唐桑民友新聞社発行。)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

江戸前の海―埋め立て前の現古「東京湾」の藻場干潟の姿を探ろう

埋め立て前の現古「東京湾」の藻場干潟の姿を探ろう

江戸前の海はこんなにも豊かな漁場だった!!

「東京湾漁場図」を読み解き、東京湾のいまを考える勉強会を開催します―ぜひご参加ください

MANAも参加して、かねてより画策してきた〔「東京湾漁場図」を読み解き、東京湾のいまを考える勉強会〕を9月6日の日曜日に東京海洋大学で開催することになりました。講師には、「江戸の釣り」や「江戸釣魚大全」の著者で、科学ジャーナリスト・釣魚史研究家の長辻象平さんをはじめ、東京湾岸をフィールドに研究を続けてきた民俗学や考古学、そして現在藻場干潟の再生活動を続けてこられたかたがたにコメンテーターとして加わってもらって、残暑の午後半日の暑いトークショーになるはずです。

『「里海」って何だろう?』を考える重要なテーマがこの勉強会には含んでいます。

呼びかけ人の名前一覧を含んだ申込書付きのお知らせ文は

「Announce_090906_final4.pdf」をダウンロード

からお読みください。

また「東京湾漁場図」については、MANAの里海ブログ「泉水宗助「東京湾漁場図」ついにWEB公開」

http://satoumi.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-3371.html

をご覧ください。

====
「東京湾漁業図を読み解き、東京湾のいまを考える会」ご案内
主催:「東京湾漁場図」を読み解き、東京湾のいまを考える会
共催:東京海洋大学江戸前ESD協議会
 東京湾の環境をよくするために行動する会(略称:東京湾をよくする会)
開催期日と時刻:2009年9月6日(日曜日)午後1時~5時(開場11時30分)
会場:東京海洋大学(品川キャンパス)大講義室(200名程度の収容が可能)
   交通手段:http://www.kaiyodai.ac.jp/info/access/access.htmlを参照してください。
予定プログラム:
○ 開会(13:00) 開会挨拶:林しん治(呼びかけ人代表)
○ 講演(13:15~15: 00)
① 東京湾漁場図に含まれた情報を読む―漁場図の成立と桜田勝徳:
  尾上一明氏(浦安市教育委員会)
② 江戸の釣り書「何羨録」を読む―江戸前の海はどんな姿だったのだろう:
  長辻象平氏(「江戸の釣り」著者・産経新聞社論説委員)
③ 明治期に記録された東京湾の魚介類相―農商務省水産局「東京湾漁場調査報告」と「漁場図」に描かれている現代へのメッセージ:西野雅人氏(魚類考古学研究・千葉県文化財センター)
○ 東京湾をどうする現場からのメッセージ(15:15~15:45)(10名ほど)
○ 総合討論:(15:45~16:50):質疑応答・意見のとりまとめ。
○ 閉会挨拶(16:50~17:00):河野博(東京海洋大学江戸前ESD協議会代表)
費用負担等:東京湾漁場図原図縮小複写及びその解説など資料代(1000円)を徴収予定。
事務局:中島満(Fax:03-3319-3137、E-mail:CBA02310@nifty.com

なお、「お知らせ文」には、もりこめなかったのですが、当日の開場の展示スペースには、

【企画展示】

①東京湾漁場図・何羨録など東京湾と漁業や釣り関連の原図・複写資料。

②現在までに発行・公開された東京湾関係の書籍・報告書・パンフなど資料。

③フリー展示コーナー(「あなたの足元にある・あった東京湾の姿をデジカメで撮影してコメントを添えて貼り付けてください。写真でなくても資料や昔の姿を写した画像や映像でもけっこうです」―東京湾に現存する藻場干潟のようすを、自然海岸・人口海岸・コンクリート護岸にかかわらず何でも知らせてください)

という内容の展示を、会場のスペースのゆるす限りしてみたいと思っています。

また漁場図入りチラシ(PDF版)も、準備中です。完成しましたら、送ります。

ぜひ、皆様のご協力をいただきながら、勉強会が盛り上がりを見せるような進行をしていきたいと思います。

*********************
まな出版企画(MANAしんぶん)
中島 満
〒165-0025 東京都中野区沼袋1-5-4
℡:03-3319-3127 Fax:03-3319-3137
Mail:CBA02310@nifty.com
URL:http://www.manabook.jp
Blog:http://satoumi.cocolog-nifty.com/blog/
*********************

| | コメント (0) | トラックバック (0)

伴信友の狩谷棭斎評について―その2

伴信友のエキ齊批判にはウラがある―中傷癖のあった信友の嫉妬心からでた捏造、についても考慮しておかなければならない

 信友がエキ齊に下した「和漢の古書ヲ好候て、校合考證をむねといたし、就中漢学ノ方長じ候様子、勿論古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少も見せぬ風に相聞候也。(村田春門宛、信友書翰、文政11.2.13)」という侮蔑そのものといってよい批判には、予想通り、やはりウラがあった。

 エキ齊が、信友の考証を「箋注和名類聚抄」に引用している、その丁寧な引用の仕方を見れば、考証家としての信友を評価していたことが読み取れるのであり、信友のエキ齊評を真に受けてはいけないと直感したが、その予測どおりだった。

 梅谷文夫著『狩谷棭斎』(かりやえきさい)(吉川弘文館・人物叢書、1994年)に、そのウラの真実が描かれている。

 ことは、古辞書の『新撰字鏡』(しんせんじきょう)が法隆寺から流出した天治本の巻二、及び巻四の書写に関わり、信友の棭斎批判の書簡が書かれたことが、わかる。箋注和名類聚抄第八巻を読解上も重要なことなので、梅谷氏記述をそのまま引用しておこう。

六 天治本『新撰字鏡』書写(梅谷著『狩谷棭斎』229p~)

前略……(エキ齊の)旅の目的は、実は、吉田神社権禰宜鈴鹿筑前守連胤(つらたね)所蔵のいわゆる天治本、天治元年(1124)鈔『新撰字鏡』巻第二・巻第四両巻の書写であった。……中略……

天治本『新撰字鏡』十二巻は、現在、宮内庁書陵部に所蔵されているが、巻第二・巻第四以外の十巻が摂津国西成(にしなり)郡伝法村の岸田忠兵衛方に所蔵されていたことは、当事は未だ全く知られていなかった。忠兵衛所蔵の十巻を世に現わしたのは連胤の功績である。棭斎の死後二十一年目、安政三年のことであることは既述した。
『新撰字鏡』は、十二巻本の天治本のほかに、一巻本のいわゆる節録本が伝えられている。『新撰字鏡』の資料価値が広く認識されるようになったのは、既述のような経緯で、節録本の一本、いわゆる村田本が発見され、それが機縁となって、その後、丘岬俊平(おかさきとしひら)(木綿屋忠左衛門)が、節録本の別の一本を底本とし、校異を付して、享和三年正月に刊行したいわゆる亨和本や、塙保己一校訂『群書類従』巻第四百九十ヒ、いわゆる類従本が流布したからである。類従本の刊年は詳らかにしない。節録本は、十二巻本から、和訓を記載する文字を選び出して編集した本であるらしい。国学者の多くは、その和訓によって古語を徴し得るという点に、特に注目したのである。節録本に載せる撰者昌住の序によって、『新撰字鏡』の原型は十二巻であること、流布している節録本は、その一部を伝えるものに過ぎないことに気づいた学者たちが、節録本の態様から、十二巻本には莫大な古語が和訓として保存されているはずと考え、その出現を待望したのは当然であろう。

天治本が法隆寺から流出し、巻第二・巻第四両巻が連胤の所蔵に帰したのは文政七年春のことらしい。無窮会専門図書館神習文庫所蔵の村田春門の日記『楽前日記』によれば、当時、大坂高津町に寓居していた本居派の中島豊足が、近ごろ法隆寺から流出したとして、巻第二の模写を同派の春門に見せたのは、同年四月二十七日のことであったという。また、春門を介して本居宣長の霊前に名簿を捧げ没後門人となった伴信友が、豊足模写の巻第二の首尾の写しを見て、伯家(白川家)門人衣関内膳(伊都伎)を介して、大坂新天満町の医師岩田三谷に豊足模写の巻第二の重写を依頼したのは、翌八年八月のことであったという。三谷の手に余る依頼であったからか、信友の願いは果たされなかったという。
棭斎が詳報をつかんだのは同十年三月以後のことであったのではないかと考える。この年三月、吉田神社権禰宜鈴鹿河内守隆啓が出府し、同月十七日に、平田篤胤とともに屋代輪池を訪問したことが、篤胤が養子鉄胤に命じて記録させたという『気吹舎日記』によって、判明している。三年前に流れた天治本流出の噂の真相を、輪池は隆啓に尋ねているにちがいないと考えるからである。恐らく、棭斎は、輪池から詳報を得て、直ちに山田錦所に取り持ちを頼み入れたのであろう。
棭斎が、このたびの西遊において、連胤所蔵の天治本両巻の書写に成功したことは、『楽前目記』文政十一年二月十三日の条に節録されている同年正月七日付で信友が春門に与えた次の書簡によって推察し得る。

一、新撰字鏡云々。三右衛門は津軽屋と申す家名にて、雅には狩谷之望(ママ)、漢名棭斎と称へ候。先年、霊異記の考証を著述・印行いたし候。類写(従)本の霊異記にも、此の男校行(ママ)にて、奥書之れ有り候。和漢の古書を好み候て、校合・考証をむねといたし、就中、漢学の方、長じ候様子、勿論、古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少しも見せぬ風に相聞こえ候也。此の男が写し帰り候由、いかさま字鏡取りいだし、浪華へと承け及び候ひき。功を得候は珍重に候へども、とても世には出だすまじと存じ候へば、ますますほしく相成り候。
引用するのも気色が悪い書簡であるが、やむを得ない。
信友は、「世には出だすまじ」と言っているが、『気吹舎日記』同年十一月三日の条に、「棭斎へ新撲字鏡古珍本返す」と書記されており、篤胤は、検斎が書写した巻第二、巻第四を借り受けていることが判明する。また、『古史本辞経』に、「世に得がたかりし、新撰字鏡の詳本、字類抄、浄蔵法師伝などを始め、西に走り東にはしり、苦心して取り出でたる書ども、まず彼レ(信友)に写させ置きたるが多く」と述べているので、篤胤は、棭斎書写本を重写し、それを信友に貸して再重写させていたことが判明する。信友が「多米宿禰ためのすくね本系帳考附、新撰姓氏録本編・抄本考」の注に、「おのれ、前に、新撰字鏡の天治元年に写せる奥書ありて、法隆寺一切経の墨印捺したる占本の [墓(土→手)]もを得て」と記す「古本の[墓(土→手)]」とは、その再重写本のことと推察される。信友は、間接的とは言え、棭斎の学恩に浴した一人なのである。
「いかさま字鏡取りいだし」は、棭斎が崇蘭館所蔵『新修本草』巻第十五を書写した時の逸話をもとに、信友が捏造した話と考える。「人にふけらかして」も、蔵書家に対する嫉妬心から出た中傷と考える。渡辺金造氏が『国学者の評判記』に紹介している鼻毛の長人(信友)の『なぞ\/』には、高田(小山田)与清を評して、「やたらに本を集め、擁書倉と名づけて人に誇り、珍しき本を買ひ集めて、人に見せずふけらかす」と述べている。与清が蔵書を広く学者の利用に供していたことを知っていて、こういう評をしているのである。信友の中傷癖を立証しようとすれば、材料には事欠かないが、あまりにもむなしい作業であるので打り切ることにする。信友は、篤胤の重写本を借り受けた時、それが棭斎書写本の重写であることを聞いたはずである。学者ならば、本の来歴を、必ず確かめていると考えるからである。いわれなく棭斎を中傷したことを、信友は恥じたであろうか。信友は、四年後の天保二年五月八日に、棭斎所蔵の室生寺旧蔵本『日本国見在書目録』 を披閲している。

 以上、梅谷氏にことわりりなく長い引用をしたが、引用しておく価値のある箇所である。昔の人の書簡についての、個人名を記載した批判には、その批判した人側からだけの情報で、批判された人の「本質」には迫ることはできない、ことの恒例になっている。もし、エキ斎に関心がなく、伴信友にだけ関心のあるひとが、「その一」に記した本だけを読んで、エキ齊を理解すること我欲ありそうなことなのである。

 書簡集や、古文書を読解するときに、現代に生きる読み手としてキモに銘じておかなければいけないことなのである。

MANA:なかじまみつる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「琵琶湖のテナガエビの由来に関する一考察」がおもしろい

原田英司・西野麻知子著「琵琶湖のテナガエビの由来に関する一考察」(琵琶湖研究所所報、21:91-110p) 2004年。
http://www.lberi.jp/root/jp/05seika/syoho_bi/21/21-12.pdf

を読む。近世博物学、本草学から明治大正昭和の魚類学論文までを駆使し、表題のテーマを論述している。

滋賀県琵琶湖・環境科学研究センター
http://www.lberi.jp/root/jp/bkjhindex.htm

のサイトより、公開論文として読めるが、『湖魚考』、『湖中産物図證』の史料価値の大きさに、それぞれ原本のコピーを手元において、自分流の復刻の文章をぼちぼちと、いっこうにすすまぬ作業をしてきたものにとって、現代の視点をもって過去の時代にさかのぼって、事の真相を究明するために、原典に当たって読みこなしていきながら、いくつもの新事実発見をしていく、本論文は、読み終えて、琵琶湖の自然の大きさ、そして、人と琵琶湖のきずなの深さを知ることとなった。ドキュメンタリーが成立するほどの面白さを感じたので、備忘録として、メモを残しておこうと思った。

MANA:なかじまみつる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

伴信友の狩谷棭斎評について

『伴信友の思想―本居宣長の学問継承者』森田康之助著(1979年。ぺりかん社)より

○伴信友:ばんのぶとも:「若狭藩士山岸惟智(これとも)を父として安永二(一七七三)年二月二十五日出生」……「文政四年四十九歳を以て至仕して隠居の身となったが、」……「隠居して一切の交役から自由となった信友は、爾来、その志をもとから好むところの学問に注ぎ、著作に考証・校勘に全力傾け、弘化三〔一八四六〕年十月十四日、京都の所司代屋敷に歿する。七十四歳であった。」(8p)

○「棭斎と信友:考証学者として知られた人物に、狩谷棭斎がある。信友とその生存時をほぼひとしくするこの棭斎は、その家の号を「実事求是書屋」といった。源順の『和妙類聚抄』の『箋注』二十巻は、その学問の特色を最もよく伝え、比較考証はまた精細を極めている。ではあるが、次に掲げる信友の棭斎評は、信友自らの持するところが、そもいかなるものであったかを、自ら語るものとして注目される。

三右衛門(棭斎)は津軽屋と申家名にて、雅には狩野(マヽ)之望(マヽ)、漢名棭斎と稱候。先年霊異記の考説ヲ著述印行いたし候。類写本霊異記にも、此男校行にて奥書有之候。和漢の古書ヲ好候て、校合考證をむねといたし、就中漢学ノ方長じ候様子、勿論古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少も見せぬ風に相聞候也。(村田春門宛、信友書翰、文政一一・二・一三)

云々というがそれで、信友の気概にあっては、棭斎の考証と、自らが心がける学問、即ち校勘を、その重要なる手順とする学問とは、その性格を全く異にするものあるを云わんとしているのである。信友は棭斎とひとしなみの考証学者として数まえられることをば、いさぎよしとはしていなかったのである。」(183~184p)

MANAメモ:(1)「狩谷棭斎」は、現代のメールで、「棭」を打ち込み送信すると、文字化けが起きる恐れがあるのでご注意のこと。MANAは、ホームページ上では、「狩谷エキ斎(かりやえきさい:安永4〈1775〉~天保6〈1833〉)」と、カタカナ混じり表記で記している。

(2)伴信友のエキ齊に対するここに引用した厳しい批判評は、やはりそうなのかと本書を読みながら赤線をひき付箋をつけた。この書の著者も、おそらく、この引用の箇所のニュアンスから、信友に同意をして書いているようだ。いわゆる、近世の国学者と称される学者たちの総意としてよいのかもしれない。

(3)それにひきかえ、エキ齊本人の国学者にたいする評価は、信友がエキ齊に下している「和漢の古書ヲ好候て、校合考證をむねといたし、就中漢学ノ方長じ候様子、勿論古道は夢にも知らぬ趣也云々。珍書をほり出し、人にふけらかして、さて少も見せぬ風に相聞候也。(村田春門宛、信友書翰、文政11.2.13)」と、ほとんど蔑みとしかとれない見下した評価を、知ってかしらずか、箋注倭名類聚抄のエキ齊箋注文において頻繁に、信友の考証を引用している。エキ齊の、直接の信友評は、未見だが、おそらく、引用文の箇所や正確さから、信友や宣長の文章への信頼はあついものがあるように感じられるので、この「侮蔑」と「信頼」という相互評価の落差に、エキ齊やエキ齊らとともに研究、考察の交換を続けてきた「漢学」や「漢方医」学者への「国学者」に共通した、対立感情、あるいは批判の根があるように思える。このあたりは、「国学者」としては、アウトサイダー的存在であった、林国雄への宣長学派たちの評価とも共通するところがあるのかもしれない。

MANA:なかじまみつる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

深尾須磨子と祖師谷通りのはずれに立つ庚申塔

南、二子道/北、高井戸道/西、府中:道しるべ

MANAからⅠさんへ(5月24日付け)

花歌会 Ⅰさま
東京新聞の木曜コラム「味探検」(同コラムのサイト:現在消滅)を書いている中島といいます。「祖師谷」と「高井戸道」を検索エンジンで検索中、偶然「花歌会」のサイト
http://homepage3.nifty.com/hanauta/
に巡り会いました。
じつは、2 月3 日付け「道しるべ」に記載されていた深尾須摩子の「祖師ケ谷」にでている、
「南 二子道
北 高井戸道
西 府中」
の詩の四つ角に今日たまたま通りかかり、その祖師谷通り(祖師ケ谷大蔵駅前の商店街のとおりです)の角に立つ庚申塔に、それと同じものが刻まれていることを、僕が写し取ってきて、この庚申塔について、調べていたところで、この詩に巡り会ったというわけです。
享和二年戊の年(1802年)に立てられた「道しるべ」の四つ角に立ったとき、ああこんなところに、昔の人の行き交う歴史の標しが残されていると、ぽつんと立つ道標の前でちょっと感動をしました。そして、深尾須摩子がこの四つ角を歌ったこととが重なり、とても不思議な気持ちになり、メールをしました。
現在、僕の味探検の街道シリーズ国道246 号大山街道編の脇道さんぽで祖師ケ谷大蔵商店街を取り上げておりまして、来週の木曜日にこの四つ角のことと、商店街のなかでおいしい肉屋さんのコ口ッケを取り上げる(そういうへんな記事なのです)ことで取材をしたところでして、話しの内容に、この深尾須摩子の詩を取り上げて見ようと思った次第です。
山田一雄の作曲で、僕でも手に入るレコードとか、CDと言うのはあるのですか。
そして、深尾須摩子のことは、僕は名前ぐらいは知っていますが、無知同然です。
明日図書館で少し調べてみようと思いますが、もしお手元に、この詩の全文があれば、メールでもファックスでも送ってもらえないでしょうか、というお願いを聞いていただけますでしようか。
それと、深尾須摩子のプ口フィルを知るには何かよいホームページのサイトか、あるいは読む本があれば教えていただければと勝手なお願いを、これまた聞いていただけますでしようか。
なんとも、突然のメールと、無理なお願いをして申し訳ありませんが、もしお時間があれば御回答いただければと思います。
失礼とはおもいますがよろしくお願い致します。
僕の味探検のコラムというのは、古い道沿いに、ブラリと歩きながら、街でであった人と味と、そのまちの歴史や民俗史的なものも加えたミニストーリーを300 回以上も書き続けています。あなたさまのサイトとの出会いも、道でフトであった不思議なめぐり合わせのーつでもあると感じ、ぶしつけとは存じましたがこのようなメールをした次第です。音楽には特にオンチ、無知なためこんなメールになりましたこと御容赦いただければと思います。ぼくの個人的なホームページ下記URL:http://www.manabook.jp を見ていただければ、ぼくの行動記録のようなものが載っていますので、ご覧いただければ幸甚に存じます。

MANA:なかじまみつる

続きを読む "深尾須磨子と祖師谷通りのはずれに立つ庚申塔"

| | コメント (0) | トラックバック (0)