東京湾の社会学講座で講師してきました

東京湾と人の関わりの歴史(江戸前の海と食文化、海の道)

12月5日、江東区森下文化センターが主宰する平成21年度下期講座「東京湾の社会学」の講師を依頼され、「東京湾と人の関わりの歴史(江戸前の海と食文化、海の道)」というタイトルで話しをしてきました。

「東京湾を様々な角度から学びます。環境・歴史・働く人々そして、身近な自然から世界的に珍しい生物まで網羅いたします。私たちの生活圏にありながら、知っているようで実は知らない東京湾の魅力に迫ります。」という企画で、

(1)11/7:東京湾の環境(江東区近辺の海の状況)……NPO法人 水辺と生物環境保全推進機構
(2)11/14:浜離宮恩賜公園の水質・生物(現地講義)……NPO法人 水辺と生物環境保全推進機構
(3)12/5:東京湾と人の関わりの歴史(江戸前の海と食文化、海の道)……まな出版企画・中島満
(4)12/19:三番瀬の海苔養殖について(市川・現役漁師に話を聞く)……福田海苔店 福田武司
(5)1/30:東京湾の珍しい生物(東京海底谷の生物たち)……千葉県立中央博物館 宮正樹
(6)2/6:交通の要衝としての東京湾(水先人に話を聞く)……日本水先人連合会
(7)2/27:東京湾の干潟(三番瀬を中心に)……NPO法人 三番瀬市民活動センター
(8)3/13:海草押し葉体験……NPO法人 水辺と生物環境保全推進機構
(9)3/20:※三番瀬生き物散策(現地講義)……NPO法人 三番瀬市民活動センター

という内容です。

中島が担当した「東京湾と人の関わりの歴史(江戸前の海と食文化、海の道)」のプレゼデータは、

その(1)東京湾の歴史と漁業の総括編:http://www.manabook.jp/tokyowan-sociology091205-01.files/frame.htm

その(2)江戸前の味探検自分の足で歩こう実践編:http://www.manabook.jp/tokyowan-sociology091205-02.files/frame.htm

その(3)鎌倉街道海の道と木更津の不思議な道をたずねる:http://www.manabook.jp/tokyowan-sociology091205-03.files/frame.htm

に載せておきました。

当日配布したプリントは、次のようなものでファイルを載せておきますので関心のある方はご覧ください。

配布資料(1)話題の内容と略年表レジュメ:「resume00.pdf」をダウンロード

配布資料(2)小杉鶴吉アナゴ漁とアナゴ筒について:「resume01.pdf」をダウンロード

配布資料(3)打瀬舟の復元・金萬智男さんの五大力船プロジェクト・お台場で江戸前海苔を作ろうの小学生たちの挑戦:「resume02.pdf」をダウンロード

配布資料(4)味探検マップ:「resume03.pdf」をダウンロード

配布資料(5)現代の海の道「東京湾フェリーとアクアライン」:「resume04.pdf」をダウンロード

 

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大山街道と鎌倉道と世田谷ボロ市の位置について

2003.03.31記:MANA:なかじまみつる

大山道とボロ市通りの位置について

20030303setagayaboroitiooyamakaid_4  世田谷区の「世田谷」の名前の発祥地が世田谷城址周辺であるが、もともとは、この地が、江戸幕府創設前からの、関東守護を司った足利の北方地区(東北)、内陸地区(甲州)防護のための要地であったことからの吉良家による世田谷城の設置場所であったことからの由来とされている。

世田谷城は、江戸開府による域内及び周辺地区にあった城砦撤去政策でとりこわされることとなったが、世田谷城址と豪徳寺の北辺通っていた、甲州街道が整備されるまでの奥州道と甲州地区を結ぶ滝坂道(現・淡島街道)と、東海道整備による箱根関所が設けられるまでの幹線道であった足柄峠越えの道(矢倉沢往還、厚木街道=大山道)の物資流通の要地として近世、近代以降継続していくこととなる。

PDF:「030331setagaya-boroiti-ooyamamiti.pdf」をダウンロード

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味探検:世田谷区祖師谷「鈴木」絶品コロッケとメンチの巻

松坂牛1頭買い店だからこその絶品コロッケとメンチ

世田谷区「祖師谷 鈴木」

20030529setagayasuzuki01 「南二子道、北高井戸道、西府中、底の抜けた駕籠が通りそうな四つ角」。
現代歌曲に多くの詩を提供した深尾須摩子歌曲集「祖師谷より」(山田一雄曲)の「道しるべ」に歌われた江戸期造立の石標が、商店街を抜けた塚戸四つ角に立つ。
 中世以来、人々が行き交った祖師谷通りの歴史が現代のにぎわいへと移行するきっかけは、昭和34年祖師谷住宅の完成あたりからという。当時最新の集合住宅としてセタガヤカルチャーが形成されていく時代を担った。
「団地併設店として抽選に当たり営業を始めた」という松坂牛指定販売店「祖師谷 鈴木」御主人の小谷野安男さん(写真上)。松坂牛を扱わせたら都内でもこの人ありと知られる御主人は、定休日を芝浦市場に松坂牛を1頭買いで競り落としに出かける日に当てている。
 小谷野さんえり抜きの松坂牛切り落としのひき肉を使った、なんともぜいたくなコロッケ(80円)とメンチ(130円)。
「熱々のうちにジャガイモと合わせ成形し、粗熱を取り冷蔵庫で水分を飛ばしたあと揚げればホクホクコロッケができる」
と奥さんの澄子さん。塩と胡椒だけの味付けと新しい油で揚げる。原料肉に限りがあり、コロッケ1000個、メンチ300個の販売が限界のため、昼頃にはメンチ、3時頃にはコロッケが完売する。
足と暇をかけてでも晩ご飯のおかずにしたい、そんな味なのだ。松坂牛「マツコマ」(100g650円)もおすすめだ。(中島満)

メモ「祖師谷 鈴木」
東京都世田谷区祖師谷2ノ4ノ7。小田急線祖師谷大蔵駅下車右手商店街方向徒歩7分。交番のある公社・祖師谷住宅手前の道右折すぐ右手。定休月曜(他不定月2回火曜休)。営業午前7時~午後7時、揚げ物10時半~。電話03・3484・4129。

注:内容は取材時のものです。現時点で価格等変更がある場合があることをご了承下さい。取材掲載:東京新聞2003年5月29日連載324回(街道209回)。写真記事:copyright 2003-2009,Mitsuru,Nakajima:リンクは自由ですが、記事写真引用についてはMANAまで了承の確認を取ってください。

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深尾須磨子と祖師谷通りのはずれに立つ庚申塔(その2)

道しるべ

MANAよりS・Iさんへ(5月25日付け)

ファックスありがとうございました。
明日昼締めきりの原稿に使わせてもらいます。

今日、祖師ケ谷大蔵に出かけてきました。味探検の味の取材(祖師谷鈴木=メンチカツとコロッケ)のあと、祖師谷通りの塚戸十字路の千歳台2丁目46の角地に立てられた石標について地元の神社総代のかたから由来などを聞いてきました。

結論からすると、詩に出てくる「道しるべ」は、「塚戸十字路」角にある石標であることがほぼ間違いないことがわかりました。南二子道、北高井戸道、西府中の位置関係にある道筋と道の呼び名は、祖師谷地区以外では該当しないようです。またそのような呼び名がある石標は、もし甲州街道沿いにあったとすると高井戸道の位置関係がおかしくなりますし、祖師谷というタイトル詩であることや、祖師谷地区、上祖師谷地区内に、この石標に刻まれた文字は地元のかたもここだけだということです。

それと、ファックスで「祖師谷より」の制作が第2次大戦の終わった年に書かれた(畑中)とあります。じつは、ぼくが、2日まえ石標の文字を書き写したときには、

「南 二子道
北 高井戸道
西 府中」

のうち「西府中」の文字が摩滅して読めなかったのですが、今日、再確認して見たら、うっすらと「西」の刻跡と、「中」の刻跡が確認できて、地元の石標をしる古老も、確かに詩のとおりに刻まれているとのことです。

この石標は、昭和30年ごろまでは、現在ある西向いの祖師谷19番地かどの矢島という家の道の力ドに立てられていたのが、その後、家の増築等のために撤去されて、近くの神社に移されていたものが平成になってから再度現地に立てかえられたものだそうです。「西」の文字が、この移動の際に、たぶん摩滅したものとおもわれると、古老の言で確認しましたから、深尾須摩子が、祖師谷に住んで、詩を書いた時点(昭和19年~20年)では、「西府中」の文字も鮮明に読み取れたものと思います。

この塚戸の地名は、「塚土」が昔の名前で、鎌倉時代、鎌倉街道をとおり、出兵をして戦争に参加し死亡した遺体や遺品、馬などを埋めた「塚」が元になっているということで、それを証明する発掘や、板碑と呼ばれる石標に記載された伝承から確認されるのだそうです。

昭和20年代の、この石標のあった周辺はとても寂しい場所でしたが、現在の祖師ケ谷大蔵駅近くになって居酒屋や雑貨屋の存在を、深尾須摩子は、過去の祖師谷の古い街道添いの道行く人々の歴史と、当時の祖師谷の自然や、祖師谷通りの風景と重ね合わせて記述したのではないかと想像をします。

「結び」にある、「京に田舎ありとは申候えど/かえって田舎に京ありとも申すべきか/まことの真の文化は」という言葉はとても意味深いようにかんじられ、祖師谷という当時の田舎、さびしいが自然の豊な、武蔵野の風景のなかでの祖師谷の中世以来からの古道沿いの名も知れぬ人々の歴史的風土への思いもあったのかもしれません。

そのほか、「釣鐘池」の伝説や神様の影の記述もとても興味を引きました。

たまたまの巡り会わせとはいえ、深尾須摩子と「祖師谷より」の詩との出会いを教えていただいたことに感謝するとともに、この詩全体に記された風景と心象とが、表面的には大きな変ぼうを遂げたとはいえ、世田谷の祖師谷に限って言えば、その詩を現代読み解き、僅かだが確かに残された歴史や文化の残り物をかみしめて、今に残して、多くの人にこの詩を知ってもらいたなあと言う思いがいたしました。

まだちゃんと詩や畑中氏の文章を読んではおりませんが、一度ちゃんと、今回の出会いと発見とをもう少し資料をそろえてまとめてみようと思っています。

MANA:なかじまみつる

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深尾須磨子と祖師谷通りのはずれに立つ庚申塔

南、二子道/北、高井戸道/西、府中:道しるべ

MANAからⅠさんへ(5月24日付け)

花歌会 Ⅰさま
東京新聞の木曜コラム「味探検」(同コラムのサイト:現在消滅)を書いている中島といいます。「祖師谷」と「高井戸道」を検索エンジンで検索中、偶然「花歌会」のサイト
http://homepage3.nifty.com/hanauta/
に巡り会いました。
じつは、2 月3 日付け「道しるべ」に記載されていた深尾須摩子の「祖師ケ谷」にでている、
「南 二子道
北 高井戸道
西 府中」
の詩の四つ角に今日たまたま通りかかり、その祖師谷通り(祖師ケ谷大蔵駅前の商店街のとおりです)の角に立つ庚申塔に、それと同じものが刻まれていることを、僕が写し取ってきて、この庚申塔について、調べていたところで、この詩に巡り会ったというわけです。
享和二年戊の年(1802年)に立てられた「道しるべ」の四つ角に立ったとき、ああこんなところに、昔の人の行き交う歴史の標しが残されていると、ぽつんと立つ道標の前でちょっと感動をしました。そして、深尾須摩子がこの四つ角を歌ったこととが重なり、とても不思議な気持ちになり、メールをしました。
現在、僕の味探検の街道シリーズ国道246 号大山街道編の脇道さんぽで祖師ケ谷大蔵商店街を取り上げておりまして、来週の木曜日にこの四つ角のことと、商店街のなかでおいしい肉屋さんのコ口ッケを取り上げる(そういうへんな記事なのです)ことで取材をしたところでして、話しの内容に、この深尾須摩子の詩を取り上げて見ようと思った次第です。
山田一雄の作曲で、僕でも手に入るレコードとか、CDと言うのはあるのですか。
そして、深尾須摩子のことは、僕は名前ぐらいは知っていますが、無知同然です。
明日図書館で少し調べてみようと思いますが、もしお手元に、この詩の全文があれば、メールでもファックスでも送ってもらえないでしょうか、というお願いを聞いていただけますでしようか。
それと、深尾須摩子のプ口フィルを知るには何かよいホームページのサイトか、あるいは読む本があれば教えていただければと勝手なお願いを、これまた聞いていただけますでしようか。
なんとも、突然のメールと、無理なお願いをして申し訳ありませんが、もしお時間があれば御回答いただければと思います。
失礼とはおもいますがよろしくお願い致します。
僕の味探検のコラムというのは、古い道沿いに、ブラリと歩きながら、街でであった人と味と、そのまちの歴史や民俗史的なものも加えたミニストーリーを300 回以上も書き続けています。あなたさまのサイトとの出会いも、道でフトであった不思議なめぐり合わせのーつでもあると感じ、ぶしつけとは存じましたがこのようなメールをした次第です。音楽には特にオンチ、無知なためこんなメールになりましたこと御容赦いただければと思います。ぼくの個人的なホームページ下記URL:http://www.manabook.jp を見ていただければ、ぼくの行動記録のようなものが載っていますので、ご覧いただければ幸甚に存じます。

MANA:なかじまみつる

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味探検287回(街道181回):宇都宮市「パイプのけむり」

味探検287回(街道181回):2002年9月5日東京新聞掲載

県都の夜は名物カクテルを楽しめる街に20020905paipunokemuri012

宇都宮市「パイプのけむり」

「これからの時代は、女性1人でも安心してくつろげて、お酒を楽しめるパブが求められるはず」と、昭和49年宇都宮のビルの一角に誕生した「パイプのけむり」。

 バーテンダーを一生の仕事に選んだオーナーの大塚徹さんは、世界でも一流の腕が認められれば、地方都市であろうと本物のカクテルの味を求めて客は集まるはずと、技を磨く。

 昭和54年世界中のバーテンダーが競うユーゴスラビア世界大会で銀メダルを手にする。日本人で始めてだった。

 大塚さんは、常にスタッフに日本のトップバーテンダーたれと互いに腕を競わせてきた。その結果同店から全国大会優勝者が続出、宇都宮にカクテルの名店ありと知られるようになった。

20020905paipunokemuri01otsuka 「カクテルとは人の味」という大塚さんにシェーキングとはと質問すると「氷で冷やされた液体に仕上げに空気を閉じこめる」と答えてくれた。人と空気の味が封じ込められたカクテル2品を作ってもらった。

 ドライジンベースの「ミスタードン」(900円。写真上右)。重厚な男性向けカクテルだ。もう一品は、女性に人気のシャンパンとウオッカにピーチツリーなどをカクテルした「クリスタルハーモニー」(同。写真左)。手ごろな価格帯がそろう料理の中から「カマンベールチーズの石焼き」(900円:写真手前)をつまみに注文した。餃子(ギョウザ)もいいけど、夜の大人の時間にカクテルはいかがだろう。(中島満)

○「パイプのけむり」メモ:栃木県宇都宮市池上町2-1田中ビル5F(池上町本店)。JR宇都宮駅下車、駅前大通を直進、県庁前通りとの交差点過ぎて30メートル先左手。徒歩20分。営業時間午前午後6時~午前2時。カウンター12席、合計80席。年中無休。電話:028-635-9281。

○注意:内容データは取材掲載(2002年9月5日)時のものです。

○現在のことは、同店ホームページ:http://www.paipunokemurihonten.com/をご覧ください。

○補注(1):取材メモ:宇都宮というと餃子(ギョウザ)の街というのが定着した感があるが、ぼくは4、5軒食べ歩いてみたが、あまりにも有名になりすぎて、味探検マンとして違った角度からの宇都宮の味を紹介することにした。むかし、『カクテルの美学』(青娥書房)という本を読んだことがあって、著者・大塚徹さんがオーナーをしている店を訪ねてみたかった。僕のカンは間違っていなかった。ちょっとカクテルのことを調べ始めたら、なぜか宇都宮がキーワードとして登場する。横浜や銀座の老舗バーもよいけれど、カクテルの普及に一生をささげた人のいる地方都市のことを取り上げてみるのもおもしろいと思った。(2002.9.5)

○補注(2):『カクテルの美学』(青娥書房)は、現在再編集されて書名『読むカクテル・飲んでおしゃれになる』(青娥書房:2002年11月刊)として販売されています。青娥書房社のホームページは、http://www.manabook.jp/seigabook/index.htmです。

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味探検286回(街道180回):日光市「たびや食堂」ヒメマス体験

味探検286回(街道180回):東京新聞2002年8月29日掲載

中禅寺湖畔で見つけた絶品ニジマス定食20020829tabiyasyokudou02

日光市・たびや食堂

「湖に棲む7種のマスたちを次の世代の人に残していくのが仕事」と、中禅寺湖漁協の組合員であり、湖畔で「たびや食堂」を営む伊藤昇さん。

 フライフィッシングを日本に持ちこんだハンス・ハンター(範田範三郎)補注(1)は、「余分な魚はとらない自然を守る心も地元に残してくれた」と伊藤さん。

Nikkotabiya03mise_2  「たびや食堂」には、メニューにあっても、めったに口にできない幻のメニューがある。「ヒメマス定食」だ。海に下らず湖で育つベニサケがヒメマス。9月19日までの漁期中、伊藤さんが釣りあげた1日数匹が定食になるだけ。補注(2)

 幸運にも取材日3匹あった1匹の恩恵に預かることができたのだが、こんがりじっくり焼き上げたヒメマスのムニエルを「うちじゃあ定食で通している」と飾らない店の雰囲気がたまらない魅力だ。

 めったに食べられない幻料理にかわる定番メニューが「ニジマス定食」(写真上・1500円)だ。

 いつでも食べられるように養殖ものを使っているが、ご主人の丁寧な下処理と調理によって、これが養殖魚かと思いまごうほどの絶品の味に仕上がる。

20020829tabiyasyokudou01 「下揚げした油は捨て、腹にまでしっかりと油を回し込み、ワインで香り付けしてバターでこんがりと焼き上げる」のがポイントとか。

 釣り自慢たちに知られたカツ丼やラーメン、秋からは伊藤さんが投網で獲るワカサギ定食と、一度食べたら忘れらない味に出会えることだろう。(©MANA:中島満)

○「たびや食堂」
日光市中宮祠2478。東武・JR日光駅下車。駅前バス乗り場で湯本行きバスで「遊覧船発着所」バス停下車、120号国道湖畔添いすぐ、のれんが目印。営業時間午前9時~午後4時頃。定休不定(12~3月は日曜定休)。電0288-55-0244。

○注意:記事内容は、取材・掲載時(2002年8月29日)のものです。

補注(1)ハンス・ハンター:「明治中期から昭和初期、国際色豊かかな避暑地日光を舞台に、トーマス・グラバー、ハンスハンター、そして駐日外交官や東京倶楽部の紳士たちが繰り広げた鱒釣り物語」を記した『日光鱒釣紳士物語』福田和美著(山と渓谷社、1999年刊)に詳しい。

補注(2)取材メモ:まぼろしの「ヒメマス定食」を味わう:ヒメマス増殖の歴史と中禅寺湖漁業史メモ

 東京新聞味探検の記事(2002年8月29日掲載)で書いたヒメマス定食について、「まぼろしのメニュー」と書いたが、まぼろし故に、いつでも食べられると読者に勘違いされると、お店に迷惑がかかるので、一年中メニューにある「ニジマス定食」を中心に書かざるをえなかった。何がまぼろしなのか、中禅寺湖のヒメマスについてちょっとメモとして書いておこう。

●陸封型のベニザケ=ヒメマス

 マス釣り好きやサケ科の魚に詳しいひとならヒメマスの何たるかをご存知だろうが、ヒメマスと聞いて、どんな魚かすぐわかる人はそうはいないはず。身の赤い、ベニザケならご存知でしょう。ひとことで入ってしまえば、「陸封型のベニサケ」がヒメマスである。それじゃあ、「陸封」とは何か。

 サケ科の魚たちのことを、海で育ち川を遡る性質をもつ「遡河性魚類(さっかせいぎょるい)」として表現することがあるが、一般的には、川で孵化(ふか)した稚魚が川を下り北半球の場合には北方の海を回遊して成長し、親魚となって生まれた川に産卵のために戻り遡って産卵し、一生を終える。こうした海洋依存の強い生活史をもつものを降海型と呼ぶ。

 ところが、いろいろな事情で海に下ることなく、あるいはダムなどで下れなくて湖やダム湖などで海に見たてて成長し、その湖に注ぐ河川で産卵をする生息環境で生育する場合を「陸封型」あるいは「河川生活型」というばあいがある。

 もう一つの分類として、一部の雄だけが川に残り成熟する「河川残留型」と呼ばれるものもいるが、これらの分類ですべてサケ科の魚たちを分類できるわけではないほど、サケ科の魚たちのの生活史は多様な形をもつ。

 同一の種で、一般的に降海型と陸封型(河川生活型)によって名称を変えるものをあげると、

  <降海型>=<陸封型・河川生活型>

   ベニザケ =ヒメマス

   サクラマス=ヤマメ

   サツキマス=アマゴ

   アメマス =エゾイワナ

をあげることができる。

 詳細なサケ科の分類については、水産庁の独立行政法人「サケマス資源管理センター」

 http://www.salmon.affrc.go.jp/zousyoku/syurui.htm

が参考になるので、そちらをご覧いただきたい。

●日本列島で生き残ったベニザケの子孫がヒメマス

 ベニザケは、現在日本には自然の状態で遡上する河川は存在しない。北太平洋では、千島列島以北、アメリカ側では、カリフォルニア州以北の、上流に湖を持つ河川に遡上する。そう、サケ科の魚のなかでもベニザケは、河川上流域で孵化した稚魚は、中流から下流域の湖で一定期間生息し、その後大海にくだり遡上する。また遡上してきたベニザケも、シロサケのように、川に入ったらまっしぐらに産卵場のある上流域に遡上するのではなく、産卵するまでの一定期間河川の途中にある湖で一呼吸おいて遊んでいく習性をもつといわれている。

 ベニザケは、どんな河川にも遡上するのではなく、このように一定の広さのある湖の存在が必要なのだ。夏でも10度C前後の冷たい水が生息に必要な条件を供えた河川は、はるか昔の日本列島の北部、北海道エリアには存在していたとされるが、やがて地球の温暖化が進んで、日本の河川にはベニザケは遡上しなくなってしまった。

 しかし、北海道の網走川上流のチミケップ湖(津別町)と阿寒湖(釧路支庁阿寒町)の2つの湖には、ベニザケの陸封型であるヒメマスが生き残った。はるか昔のこと、二つの湖を含む河川は、おそらく地殻変動、隆起等の何らかの原因で海と遮断されてしまったのだろう。その時、湖で海にくだるまでの一定期間を過ごしていたベニザケの子供たちは、陸封され、2つの湖だけを生息地として何代も何代もの子孫をのこしてきた。

 この2つの湖がヒメマスの日本における原産地となっているのだ。

●十和田湖や中禅寺湖に移植されたヒメマスの歴史

 こうして幸運にも日本に生き残った子孫であるヒメマスを、チミケップ湖と阿寒湖に似た環境の湖に移植してみようという試みが実行に移されることになる。

 以下 Sorry Under Construction

●日光編取材中に、地元のいろいろなかたから日光ならではの味についての情報をいただいた。

Nikkotabiya01

Nikkotabiya02himemasu_2

●上の写真は、東京新聞記事では載せられなかった、ヒメマスの剥製をみせてくれた「たびや食堂」ご主人の伊藤昇さん(上)と幻の「ヒメマス定食」(下)。

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文京区白山 薬膳カレーじねんじょ

暑い夏こそ薬膳カレーで体すっきり

010712228jinenjo_1[味探検228回2001年7月12日東京新聞掲載 白山上交差点近くで、「薬膳カレー」の看板を見つけた。店名は「じねんじょ」。カレーは、もともとスパイスを使った薬膳料理に違いない。山菜でも滋養分の強い自然薯。店の回りは、いかにも効きそうな、スパイスに薬草が交じり合った香りが漂い、思わず誘い込まれて店に入った。
 「奥多摩山中の修験道場で修行を積み、薬効成分を含む自然食材を使った食が健康な体と心を作るためにどんなに良いのかを実践してきた」と、同店オーナーの生井隆明さん。

 日本山岳修道会大導師、天霊院龍鳴という名前を持つ。
生井さんが修業者にと考案した薬膳カレーを、日常味わいたいという声で、20年前に谷中本店を出し一躍脚光を浴びた。現代人のバランスを失った心と体のストレス障害に悩む人にと開設した生井ストレスクリニック(5800-2998)の1階が、「白山店」となっている。

 まずは「薬膳特製カレー」(コーヒーつき1950円。他に鶏肉カレー1390円、野菜カレー1330円など)を頼んだ。店主配合のカレースパイスに、ヤマノイモ、アシタバ、スギナ、カキノハ、クワノハ、ビワノハに、野菜ベースの基本ルーに、クコの実、ハスの実、ナツメ、お種人参、マタタビなど薬草8種をトッピングしたカレー。

 ご飯には、クレソンが散らしてあり、カレーをかけて口に運ぶ。カレースパイスと薬草臭とが見事に融和した味だ。江戸の人々の夏の水分補給に欠かせなかった枇杷葉茶やスギナ茶(写真1杯400円)の奥多摩野草茶も日替わりで飲める。(中島満)

○「薬膳カレーじねんじょ」メモ
東京都文京区白山5ノ36ノ2。地下鉄都営三田線白山駅3番出口からすぐの道右折左手。営業午前11時半~午後2時半(土日祝4時まで)。午後5時半~9時半。定休なし。カウンター8席、テーブル12席。03-3818-5689。

注意:内容は東京新聞掲載時(2001年7月12日)のデータです。

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味探検:本郷「ファイアーハウス」

味探検№218-街道№128 中山道―本郷:2001年5月5日東京新聞掲載Firehouse2

1品1350円でも大満足、ダブルチーズバーガー

 旧中山道の道筋は、湯島聖堂の裏を回りこみ神田明神前で本郷通りとなり、東大農学部前を左に巣鴨方向に向かう。「本郷も、かねやすまでは江戸のうち」と川柳で歌われた「かねやす」小間物店が現在も営業する本郷3丁目交差点から白山、小石川方向は、震・戦災を逃れた古い家並みが残り、名所の坂めぐりと格好の散歩コースが多い。

Firehouseyoshida_2   春日通り沿いに、東大生のランチ人気ベストテンの上位に入るハンバーガーのうまい店「ファイーアーハウス」がある。

「自分でおいしいと感じる本物のハンバーガー」を探し、結局自分で作るしかないと、5年前22歳で開業したオーナーの吉田大門さん(写真)。100円前後のハンバーガーが氾濫する時代、1個850円は高いと感じるなら、まずは食べてみると納得するはずだ。

 ハンバーグの焼き方、レタス・トマト・オニオンとピクルス入りドレッシングとマヨネーズにマスタードのコンビネーションの味が実にうまい。

 ボリュームたっぷりのダブルチーズバーガー(1350円。写真)を大口を開けて、がぶりと頬張る。たっぷりのフライドポテトをつまみ、ピクルスをポリポリやりながらダイナミックに食べるのがこの店流の食べ方とか。

 ちょうど納品に来たパン屋さんの高橋康弘さん(補注3参照)も吉田さんのハンバーガーにかける情熱に打たれて「パンの味が勝たずに女房役に徹した酒ダネ入り特製バンズを開発した」のだと話してくれた。

 9種類のハンバーガーにサンドイッチやホットドッグに飲み物のメニューも豊富で、ゆったりとした店の雰囲気も人気の秘訣だろう。(MANA:中島満)

写真上=ボリューム満点ダブルチーズバーガー。

写真下=オーナー・吉田大門さん 

○「ファイアーハウス」メモ
 東京都文京区本郷4ノ5ノ10。地下鉄丸の内線本郷3丁目駅下車本郷通りに出て本郷3丁目交差点を春日通り方向に左折、本郷4丁目信号を渡りすぐ右カド。営業時間午前11時~10時(日曜7時半)LO。定休なし。全30席。03-3815-6044。

○注意:記事内容は、記事投稿時(2001年5月5日)のものです。

○現在のことは、同店ホームページ:http://www.firehouse.co.jp/ を参照してください。

○補注(1):2002年9月にデリバリー部門とパーティーラウンジ部門を拡大したという連絡をもらう(2003年1月23日)。同部門の電話:03-3815-6144。住所:文京区本郷4-7-5。担当:岩田卓之店長。

○補注(2):2010年某月「13周年」を迎えたというチラシ入りの連絡を受ける。

Firehouse2010photo2010

○補注(3):同店使用バンズを提供するパン屋さん:「峰屋」:新宿6-20-10:03-3351-6794:最寄駅都営新宿線「若松河田駅」:営業時間 10:00~20:00:ランチ営業:定休日・日曜祝日

東京新聞朝刊2001.5.5付首都圏情報版ゆめぽっけ掲載

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たにし、たにし、こーとこと♪♪

タニシの歌のルーツを探る

~田螺のザッコロジー/メモ~:ぶらり街道の[味探検]1999年7月8日付け東京新聞掲載取材メモ【矢倉沢往還―タニシの歌と飯山の祭り】

「たにし たにし こーとこと」

 厚木の郷土史研究家飯田孝さんに厚木街道と相模川の水運についてのお話を伺いたくて連絡をしたら、相模川べりにある自宅マンションの一室に設けられた私設郷土資料室に案内されて、そこで1時間ほどお話を聞くことができた。

飯山観音の競馬

 そのお話しのなかで、これから取材で飯山温泉にいくつもりで、ガイドブックには、タニシの佃煮が名物と書いてあるけれど、どんな食べ物なのか、を質問してみた。そうしたら、「厚木周辺にはタニシのウタがあるんですよ」と、タニシひとつにしても、こんなにもいろいろな歴史と民俗のできごとのつらなりがあるものなのかと、なんとも楽しいはなしをしてくれた。

 「むかしの人々は、飯山の4月の祭りを楽しみにしていて、何キロも離れた村から歩いて1日がかりで祭りに出かけるんです。そんな文書の記録もありますからお見せしましょう」

と、ご自身が調査された報告書や、文献を引っ張り出して説明してくれた。

以下の記事は

http://www.manabook.jp/notes12tanisisong.htm

上記サイトに載せてありますのでご覧ください。

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