オーストラリア先住民との出会い(5)
――「オーストラリアは私の国です」とジョアンさんは話してくれた
中村禮子(なかむられいこ)(2009年4月投稿)
ジョアンさんとの出会いと帰国後のメールの交換
トレス海峡とは、大陸の東側の北端に突き出たヨーク岬とパプアニューギニアの間にある海峡のことで、その辺りの島に住んでいた先住民の一人がこのジョアンさんだった。
先住民に会う時は、目を見てはいけないとの注意を受けてはいたのだが、人とのやり取りでそういうことに慣れていない私は、ジョアンさんとバッチリ目を合わせての会話になってしまった。
ワハハと大きな口をあけて笑う彼女にとても好感をもてた。蛇足だが、素晴らしく真白な歯が印象的で、全く虫歯もない健全な歯だなと、喉まで見せてもらって感心したほどである。
「一緒にとった写真を送りたいので、アドレスを教えてくれる」
「もちろん」
と、私の手帳に書いてくれた。メールアドレスも住所も教えてくれた。
「何しているの」と聞くと「図書館の司書をしてるの」と快活に話してくれた。
その時には自然にお互いが手を握っての会話になって、とても嬉しかった。「絶対に送るから待っててね」、といってパブを後にした。知り合いができて、とてもほっとした。緊張する必要もなかった、と帰りは気分が良かった。
オーストラリアは私の国です、果てしなく広がる広大な平野と美しい太陽の輝きが素晴らしいのよ
日本に戻り、彼女にメールでその時のたった一枚の写真を送った。すぐに返事が来て、あの時の写真ありがとう、とっても嬉しかった、と弾んだ心が伝わってきた。多分、彼女にとって初めて出会った日本人であったであろう私。トレス海峡諸島の人とはじめて知り合いになって、そして、メールのやり取りはいまだに続いているが、彼女から最近いただいたメールの文章の中に、こんなことが書いてあった。
Australia is my country a land of sweeping plains and the beautiful rays of sunshine it is okay.
オーストラリアは私の国です、果てしなく広がる広大な平野と美しい太陽の輝きが素晴らしい。
この文章に彼女の先住民としての素晴らしいプライドが凝縮されていて、私は深く感動し、慌てて、オーストラリアは素晴らしい国、私も大好き、と返事を打った。
トレス海峡(南北150km、東西200~300km)には多くの小さな島があるが、そのうちの12の島に人が住んでおり、よく知られているのはプリンスウエールス島と木曜島である。
日本と関係の深い歴史をもつトレス海峡諸島
この地域はアコヤ貝(真珠貝)の生息地で、昔は貝ボタンのための漁業が盛んであった。特に日本によく知られている木曜島には、三重県や和歌山県から多くの真珠ダイバーが渡っていき、島の人々と結婚しているため、日本人との混血の人が多い。
会議で出会った、ロンダ シバサキさんはご主人が日系人なので、柴崎という苗字だった。本人は、マレー人と日本人とトレス海峡諸島先住民の混血だといわれたが、顔はアジアの色が強かったし、身体も日本人のような感じで小柄でスマートで、とてもオープンであったので好感がもてた。
彼女は、クイーンスランド州政府の高官でオーストラリア先住民とトレス海峡諸島先住民の健康管理に携わっている。会議での話し振りや私たちへの対応が実にきちんとしていて、素晴らしい方だった。一緒にお茶を飲んでのおしゃべりでは、自分のおじさんが和歌山県の新宮市に住んでいるので、日本にも行ったことがあるそうで、現在、自分は家系図を作るべく作業を余暇にやっているが、写真の裏には日本語しか書いてないので、難儀をしていると。
ロッド首相が〝失われた歴史〟に対し公式謝罪を宣言
1993年には先住民の先住権が認められ、先住民居住地域の所有権も認められている。また、2008年2月13日、労働党のケビン ロッド現首相が、先住民の子供たちの多くが犠牲になった、あの“失われた時代”に対しての公式謝罪を、先住民族に対して宣言されたことは、記憶に新しい。
そして、ゴムブラさん が、ポツリと言われたことは、
また、1000ドルもらえるんだよ、だけどなー
……もらえないより良いけど
と、それ以上多くを語らなかった。
今では、政府が先住民の保護政策を掲げて活動をしているが、深い心の傷を持つ人々が、このような社会の中で、生きていく気を無くすのも、当然なことである。また、生活保護のお蔭で、たやすくアルコールの入手もできる。
ただし、先住民居住区に、アルコール飲料を持ち込むことは法律で禁じられ、それを犯すと罰金である。それは彼らの伝統の中には、飲酒文化がなかったことから、遺伝的にアルコール分解酵素が全くないか、極めて少ないので、少量のアルコールで泥酔しやすいからである。今や先住民の間では様々な社会問題、健康問題と共に、とくにこのアルコール問題も大きな難題になっている。
かつての白豪主義は影を潜めているけれども
かつて白豪主義を掲げ、有色人種移民を拒否していたが、1970年代以降は多くの移民や難民を受け入れて成長してきたラッキーカントリー、オーストラリア。
2000年のシドニーオリンピックでもアピールされていたが、すでに白豪主義の様相は消えてしまったかのように、現在は正に複合民族国家としての文化の多様性を持ち、あらゆる宗派のキリスト教会、回教寺院、仏教寺社、ヒンドゥー寺院などなどがあり、肌の色も言語も様々で本当にいろいろな人たちが生活をしている。
それは2100万人の人口の25%が、外国生まれであるという事実からもうかがえよう。そして、私たち日本人に対しても寛容な受け入れをしてくれていると、感謝している。
参考までにオーストラリアについての一面を物語る、興味深い調査結果を紹介したい。
ウエスタンシドニー大学のケビン ダン教授がオーストラリアの大学のオーストラリア人1万2500人を対象として、10年間行われた人種差別アンケートの結果が2008年に新聞に掲載されていた。
○先住民、イスラム教徒、黒人に対する差別意識が根強い。
○白豪主義的人種差別意識が残っている。
○10人に一人は人種至上主義者である。
また、ニューサウスウエールス州(シドニーがあり一番人口の多い州)の回答者のうち、46%が特定の民族は今のオーストラリアに相応しくない、10%が異民族間結婚を認めない、また、10%が全ての民族が平等でなく、自分たちより劣る民族がいると、答えている。
同じ地球上に起こった歴史的事実を風化させてはならない
オーストラリアの大地には、こんなに悲しい歴史的事実が刻まれている。私の心の底に焼きついた、その重さを感じながら、朝の光が新鮮に輝く9時過ぎのフライトに乗る。
西へ果てしなく広がる、広大な大地は太陽が高く昇ると紫色に染まる。その大陸の中央には先住民の言葉で“ウルル”と呼ばれる、あのエアーズロックが太古の昔から変ることない姿で残され続けている。それは何よりも大切な先住民の聖域である。傷ついた先住民たちがどんなにか、そのウルルに心を傾けたことであろうか。その心の痛みを持ちながら生きている先住民の姿が、窓越しに幾重にも重なっていた。
そして、夕方にはフライトは成田へ到着。そのまま、日本の生活の中にすっぽりと戻っていく自分の心の中に、この先住民との出会いは生き続けている。同様な悲劇はこの地球上の、あちこちの先住民たちにも起こったことを思うにつけ、風化させてはならないと、こうして筆をとることにした。 終わり:(1)に戻る
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