『有明海』ワラスボ漁の写真、「ザ!鉄腕!DASH!」で流れる

ドウキン掻き:懐かしいなあこの写真!Ariakekaiwarasubo62pmigi

日本テレビの「ザ!鉄腕!DASH!」2009年6月14日午後7時からの番組で、当社刊行の『有明海』富永健司写真著(1996年)より「ワラスボ漁」の写真が使用されました。

その土地の様子や郷土料理を体験映像を踏まえて放送する番組で、使用を連絡を受け、富永健司さんの了解の上、了承しました。放送は見ていないのでわからないが、たぶん、60~62ページの「ドウキン掻き」であろう。担当の渡辺さんからの「素材使用申請書」では、この日のテーマは「ご当地調味料を探せ」。ワラスボ掻きをTOKIOのメンバーが体験し、ワラスボや干したワラスボを調味料にした料理を食べている映像が流されたのであろうか。見ておけばよかった。

60ページの「ドウキン掻き」の写真の絵トキには、「藁素坊(ワラスボ)のことをこの地方ではドウキンまたはドウキュウとよぶ。干潟にはカニ穴、ムツ穴、ハゼ穴、アゲマキの穴などがあるが、慣れるとそれらの穴の見分けがつくという。三指の銛を外側に曲げた掻き棒で穴とと穴の中間を掻く。」とある。

Ariakekaiwarasubokagehosi61pmigi また、61ページの「陰干しされるドウキン」(写真下)には「酒肴品として珍重される。ふつうはミソ汁に入れたり、ミソ煮にする。冬から春さきにかけて脂がのってうまい。藁素坊は成長すると潟中に棲息。眼は退化しており、歯は上下とも牙様で、二枚貝のアゲマキなどを殻ごと食べる。鯛に恋してふられ、面相がさらに悪くなった、との話しが各地に残る。」とある。右上の写真上(下)のワラスボのイラストは、魚類学者としての山下弘文さんが描いたものである。山下さんが生きておられたら、「歴史」は変わっていたかもしれない、なんて……ふと思っちゃうなあ。

MANA(なかじまみつる)

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中村禮子さんからのお便り―「オーストラリア先住民との出会い」

 京都大学、舞鶴の水産実験場には、MANAが長期取材して、聞き書きをした『若狭の漁師、さかなばなし』(貝井春治郎著)を書くときに、ほんとうに頻繁に出入りした。中村泉さんとは、みょうに気があって、先生は僕の取材したり関心を持っていることに興味を持っていただき、研究室にお邪魔して、数時間話をしたあとは、ご自宅におじゃまをして、またしゃべりまくるという繰り返しをしたことがありました。

 そのおり、お世話になったのが、中村先生の奥様の中村禮子さんでした。中村先生が、京都府漁連の機関誌に連載されていた「やさしい魚類学」(現在も掲載中。なんと)を、何とか本にしようと企画し、その足がかりにと、

http://www.manabook.jp/nakamura-izumi-index.htm

こんなページをつくりましたが、いまだ編集者の怠慢によって実現していません。

 そのTOPページに、中村先生が退官後赴任された―チュニジアでの暮らしぶり交遊録をのせた中村禮子さんの「チュニジア便り」

http://www.manabook.jp/reiko-nakamura.htm

をリンクさせて載せてあります。彼女の文才ぶりをしめすエッセイとして、その後もいろいろな方から、このページにアクセスしてお便りを頂戴しました。

 こんな話の経緯はさておきまして、ひさしぶりに、今年になって中村先生ともお会いし、また奥様とも、偶然私の家の近くに住むことになった娘さんの家でお話をする機会ができました。そのときに、奥様の禮子さんから、オーストラリアに調査にいく仕事の話がありまして、そのレポートを書いてみたい、というのです。

 MANAとすれば願ったりかなったりで、名文家の、禮子さんが、また新しい挑戦をして、その鋭い批評精神で書いてくれる文章を楽しみに待つことにしました。

 4月のある日。メールがきました。「舞鶴よりこんにちわ」と、楽しい話題と、オーストラリア調査取材記が添付されていました。

 ブログとしては少々長いので、読みやすいように、5回にわけて掲載します。

 タイトルは「オーストラリア先住民との出会い」です。どんな話なのか、説明はしません。関心のある方はそれぞれの文章から入ってください。

第1回:アボリジニという言葉は使ってはいけない!?

第2回:心の痛みを持ち続ける人々から発した言葉を聞いた

第3回:握手、そして温もりを感じ、心が通じたと思った一瞬だった

第4回:生活習慣病による短命を惹起させたおおもとにあるもの

第5回:「オーストラリアは私の国です」とジョアンさんは話してくれた

中村禮子さんへの連絡がありましたら、MANA宛メールをいただければアドレスをお教えします。また、ご意見などは、ブログに書き込んでください。(MANA:なかじまみつる)

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オーストラリア先住民との出会い(1)

オーストラリア先住民との出会い

――アボリジニという言葉は使ってはいけない!?

中村禮子(なかむられいこ)(2009年4月投稿)

Reikoblog01sydney シドニー空港に降り立つ

 北半球が春の到来に心を躍らせる頃、南半球は夏の暑さが去り、心地良い秋を迎える。関空や成田から夜の8時から9時の飛行機に乗って約9時間半、翌朝7時か8時にはキラキラ朝日の輝くシドニーの空港に降り立つ。時差は夏の間は2時間、お彼岸を過ぎると冬時間なので、時計を1時間早める。一路南へ向かう飛行機の窓から、東に昇る太陽からの朝焼けを受け、燃え上がるような強烈な赤い大地が西へ西へと果てしなく続き、闇の中からその姿が現れる光景は、正に想像を絶する世界である。このフライトに乗られた方はきっと、その感動を忘れることがないだろう。そして、明るいオーストラリアのことも。

 地図の上からは想像しにくいが、オーストラリアは世界で6番目に大きな国で、大陸の面積は日本の約20倍、アラスカを除くアメリカ合衆国とほぼ同じ面積である。そこに東京都と神奈川県の総人口とほぼ同じ、およそ2,100万人の人々が住んでいる。

 そのオーストラリア大陸の歴史は古く、大陸移動により他の大陸よりも遥か昔に離れたがために、あの大陸には珍しい動物や植物が多い。特別な進化を成し遂げた有袋類 (お腹に袋を持っている動物、コアラ、カンガルー、ワラビー、ポッサム、ウォンバットなど) や単孔類 (総排泄口があり、卵を産み、哺乳をする動物、カモノハシ、ハリモグラなど) また、山火事の多い大陸では、種が火で熱せられないと発芽しない植物など、オーストラリア大陸固有の生物が多いことはよく知られている。

オーストラリア先住民の人々の健康状態調査

 そうした自然体系の中で自然の一員として、特別な文化と生活様式を持って住んでいた人々がオーストラリア先住民である。昔は原住民とか原始人とかいろいろいわれていた人々であり、もともとのオーストラリア人であることは周知の通りで、現在、総人口の2.6%が先住民である。

 私は今回オーストラリア先住民の人々の健康状態調査の、予備調査のためにシドニーに行き、先住民の人々と出会い、交流し彼らの置かれている状況を覗かせてもらう機会を得たので、あまり表には見えにくいオーストラリアについての理解を多くの方々に持っていただきたく、ここに紹介することにした。

Reikoblog06rengaart01  ほぼ定説になっているのは、オーストラリア大陸にインドネシアからニューギニアを経て人類が住み始めたのは、今からおよそ4万~5万年前といわれており、それがオーストラリア先住民(Aboriginal Australian)といわれている人たちである。Aboriginal という言葉はもともとラテン語の“最初からの”という意味の言葉に由来している。

Aborigine:アボリジニという言葉は使ってはいけない!?

 英語のaborigine(アボリジニ)は一般に原住民、先住民、土着民などと訳され、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、南米、北アフリカ、フィンランド、北海道などなど世界の先住民一般をさすが、Aborigine ( Aが大文字の場合) はオーストラリア先住民の意味で、それぞれが辞書にある。

 しかし、今や差別的な意味合いのある言葉を使うことは禁止されているので、英語でAborigineという言葉は使ってはいけないそうで、Aboriginalを使うようにと、担当官に文書の英語を訂正するようにとの指示を受けた。 オーストラリア先住民との出会い(2)につづく

写真(上):シドニーの街をのぞむ

写真(下):レンガ塀に描かれた絵

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オーストラリア先住民との出会い(2)

オーストラリア先住民との出会い

――心の痛みを持ち続ける人々から発した言葉を聞いた

中村禮子(なかむられいこ)(2009年4月投稿)

ゴムブラさんの目は、憎しみの眼差しに変わっていた

Reikoblog02drmutoro_2  彼の有名なイギリス海軍、ジェームズ・クック艦長が始めてオーストラリア大陸に上陸したのは1770年。それを機に、先住民の平和な暮らしが狂い始め、悲劇が初まったと話されるゴムブラさんの目は、憎しみの眼差しに変わっていた。

 シドニーの西約100kmのブルーマウンテンに、家族と住む純粋のオーストラリア先住民であるゴムブラさん(写真左)を訪ねて、いろいろな話を聞いた時のことである。

 ポストドクターの研究で、2年間京大に来られていたケニア人、デビッド・ムトロ博士(写真右)にカウンターパートになってもらい、シドニーで一緒に仕事を進めた。その彼が一緒に昼食でもとりながら、じっくりと話を聞いてはどうかと、アレンジしてくれたので、気安くおしゃべりができたのだ。

私は有色人種でよかった?!

 実は彼らは迫害の歴史を展開してきた白人が大嫌いな上に、普通は先住民の人たちは昔からの虐げられた境遇のため、話の中で自分のことはしゃべりたがらないそうである。とくに混血の人々は心の痛みを持っていると、ゴムブラさんはいわれた。ムトロ博士は東アフリカからの黒人でバンツー族、私どもは黄色人種、お互いに有色人種でよかった。

 ゴムブラさんの奥さんのアビーナさんも一緒に来てくれたのだが、彼女は多くを語らなかったし、写真撮影も拒まれた。

 白人のような皮膚にブロンドの髪をしているので、私には彼女を先住民と見ることができなかった。しかし、どこか底知れぬ物悲しさが漂い、何を話したら笑顔を覗かせてくれるのだろうかと、こちらも大変気を使ったほどだ。それでも、屈託のないゴムブラさんの話で、すっかり安心したのである。

 1770年ごろには、先住民の数は約30万人、長老を中心にした小集団の社会を機軸にして、石器や木器を使い狩猟,採集生活をしながら、タスマニア島からオーストラリア大陸に隈なく住んでいたそうである。その頃には約250の言語が話され700を越える部族がいたということである。

しかし、それから悲劇が始まった

Reikoblog03gonbrasan  しかし、それから悲劇が始まったのである。新しくやってきたイギリス人たちは、すべての自然と自然現象に神が宿るとするアミニズム(霊魂信仰)の考え方による先住民の信仰の対象であり、生活の糧を提供する大地という、土地に対する認識を理解することなく、思いのままに彼らの領域を侵した。

 白人の開拓地に入り込む先住民をイギリス兵が自由に捕獲、殺害する権利を認める法律まで作ったのである。正に驚きに値する人種差別と、人権無視の世界が広がっていた。スポーツハンティングの延長で殺害され、さらには入植者の持ち込んだ病気に対して、充分な免疫を持たない先住民たちは、たちどころに命を落としていった。

 そのため1876年までに、3万7000人いたタスマニアの先住民は絶滅に至り、その結果、先住民人口の90%減少という、想像に絶する事実が記録に残されている。

 また、アメリカの先住民と同様に、保護政策と称して、先住民たちは白人の影響の濃い地域から、内陸の過酷な砂漠地域である保護地域に移住させられた。それは、正に人種隔離政策以外の何ものでもなかった。

先住民の人口減少の理由―殺戮と病気……

 先住民の急激な人口減少を抑え、混血の先住民を保護するため、という名目のもと、Stolen Children (盗まれた子供たち) あるいは Stolen Generation (失われた世代)という言葉で表されている強行政策が1869年から始められた。

 そのための法律が施行され、連邦政府、州政府およびキリスト教会とによって、この政策は一方的に進められた。

 それは本質的には、先住民を野蛮で文化的に劣るとし、その子供たちを進んだ文化の下で、優れた人間として育てるべきであるとの考え方で、キリスト教や白人の文化を植えつけるために行われたのである。そして、子供を強制的に親から引き離し、白人家庭、孤児院、寄宿舎、あるいは強制収容所などに収容し、親には行き先を隠し、本当の親の存在すら教えずに育てるという形で行われた。 (3)につづく

写真上:ゴムブラさんとムトロ博士

写真下:ゴムブラさん(中央右)と筆者中村(中央左)

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オーストラリア先住民との出会い(3)

オーストラリア先住民との出会い

――握手、そして温もりを感じ、心が通じたと思った一瞬だった

中村禮子(なかむられいこ)(2009年4月投稿)

心の傷は永遠に癒されることはない

Reikoblog04aboriginalflag  ゴムブラさんは正にこの被害にあった世代であり、彼はその経験を大変オープンに話してくれた。自分は全くのきかん坊で暴れん坊だったので、収容された孤児院のスタッフからひどいことをされ、結局は親元に戻された珍しい例だといわれた。

 そんな話をされ、ゴムブラさんは一呼吸置きながら胸に右手を置いて空を見上げ、その心の痛みに耐えているようで、こちらの方が涙が溢れそうになり申し訳なくて、彼に謝った。

 すると、彼は手に負えない子供でよかったんだ、と笑って答えてくれたが、その心の傷は永遠に癒されることはないと、自然のうちに私の心の中に伝えられた。

1997年まで事実は隠されてきた

 こうした悲劇に出会った先住民の子供たちが、10%に及んだという統計データからしても、最も悲しい出来事である。これが1969年まで100年も続いたのであるから、その犠牲者の数は計り知れない。

 その結果、人間としての一番大切なアイデンティティーの喪失という事態が起こり、それぞれが、決してぬぐうことのできない、人生の大きな傷を背負って生きることになった。そして、この事実は1997年に刊行された司法大臣の報告により、初めて一般に知らされることになったが、それまでは知る人ぞ知るという状況であった。

 また、シドニーの街中で、レドファンという先住民が住む地域にも足を踏み入れ、ムトロ博士が案内をしてくれた。本当は、とても一般の人が近付くことすらできない地域である。それは、アルコールや麻薬犯罪の多く起こるところで、いつ何が起こるかわからないという地域で、白人はもちろんだが、有色人ですら敬遠するところである。

レドファンの人々のすむ地域を訪れた

 私たちがそこを訪れたのはちょうど土曜日の午後で、その日はファミリーデーのイベントがその地域の中心広場で行われており、広場に設けられたステージの上で、バンドや歌やお話が行われていた。

 ステージの後ろにはオーストラリア先住民の大きな旗が建物の一面に描かれていた(写真上)。

 それは黒がアボリジニの現在、過去、未来と彼らの肌の色を、黄色は生命の源である太陽を、赤が赤土の大地と、彼らの歴史の中での白人との闘いで流した血の色をそれぞれ表し、彼らのアイデンティティーと誇りを象徴しているようであった。周りのレンガ塀にも彼ら独特な透視画法の絵がカラフルに描かれ、彼らの主張がビシビシと伝わってきた。

 周りには白人警官があちこちに詰めていて、何かものものしかったが、先住民の子供たちは他愛なく広場で遊んでいた。

私は日本から健康調査のためにやってきました

Reikoblog05ensou  黒人のムトロ博士のお蔭で、周りの聴衆と会って話をすることもできた。まず、自己紹介をし、日本から健康調査のためにやってきました。皆さんと会えて嬉しいですと笑顔で話し、手を差し伸べたら、ブルースさんは笑顔で握手をしてくれたので、緊張感が一気に飛んで、暖かい手とともに心が通じる感じがした。

 スマートな出で立ちの彼は、学校の先生をしているそうだ。精悍な顔と素晴らしい笑顔が素敵だった。そして、言われた。

 私たちは白人に小麦と砂糖と脂を食べさせられたお蔭で、みんなが健康を害しているんだと。その時、はたと気がついたのは、子供が盗まれただけではなくて、さらに彼らの食生活そのものまで、変えさせられたのかと、改めて気付かされたのである。

写真(下)これはオーストラリア先住民が観光客へのアトラクションですが、身体に土絵の具を塗った伝統的なスタイルでシドニーの街角でドジリドゥ(ユーカリの木をくりぬいた伝統的な木管楽器)を演奏している光景です。聴衆から募金をもらいます。

白人に小麦と砂糖と脂を食べさせられたお蔭で、みんなが健康を害しているんだ!!

 そのことは、ゴムブラさんとの話の中でも感じられた。自分の母も父も糖尿病にかかって亡くなったし、自分も多くの友人もみんな糖尿病になっているが、どうして糖尿病になるのかと、その背景を聞かれた。

 また、自分の一人の息子は歌舞伎症候群といわれる遺伝子異常による病気になっている。そのために、アメリカに検査治療のために行ったことがある。

 この子はとっても可愛い子なんだけど体のあちこちに異常があって、可愛そうなんだ、と言いながら視線をそらせた。それから、一時して、自分はアルコールを一切飲まないけど、多くの先住民はアルコールにもやられているんだ、と。 (4)につづく

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オーストラリア先住民との出会い(4)

オーストラリア先住民との出会い

――生活習慣病による短命を惹起させたおおもとにあるもの

中村禮子(なかむられいこ)(2009年4月投稿)

白豪主義による白人優位の差別政策が残した大きな爪あと

Reikoblog06rengaart02  先住民はいわゆる生活習慣病にかかって、非常に短命になっているのである。とりわけ世界の先住民族の中で、最もその弊害が大きいのがオーストラリア先住民の人たちである。

 統計データによると、先住民の平均寿命は男56.9歳(オーストラリアの平均72.2歳)、女61.7歳(同81.1歳)。

 ちなみに、世界25ヵ国61地域の人々1万6000人の健康調査を、20年以上もされている武庫川女子大学国際健康研究所、所長の家森幸男教授のオーストラリア先住民の検診結果によると、40代では70%弱が糖尿病、高血圧症、50代前半では90%が、50代後半では100%が糖尿病か高血圧症のいずれかの症状を持っているということである。

 これは18世紀後半から200年以上にわたって続けられた、入植者による迫害の歴史の結果による食生活の激変が原因であり、白豪主義による白人優位の差別政策が残した大きな爪あとであると結ばれている。

倹約遺伝子って?―体質に合った伝統食がいかに大切か

 もともと先住民には、倹約遺伝子といわれる、食料入手が困難で過酷な条件の中でも生き抜いてこられる遺伝子が備わっている。

 これは人類がいかに少ない食料を効率よくエネルギーに換えるかという形で、長い年月の中で適応進化した結果である。それに適した食料で生きてきた人々が、高エネルギーの食事を豊かな食事と思い込み、その害にさらされ時、健康がどう害されていくかを、現在のオーストラリア先住民の健康状態が端的に表していると家森教授は述べている。

 ついでながら、日本においても同様な状況が展開されていることも事実である。いかに体質に合った伝統食が大切かを知らされる。

パブでの出会いもほんとうは〝怖々〟だったのだ

 ファミリーイベントの会場を後にし、街をぶらぶらして先住民の溜まり場になっているパブに行った。

 午後3時頃だったが、あちこちのテーブルを囲んで、もちろんパブでは立ったまま飲むのだが、人の輪ができて楽しげだった。皆、ビール腹をつきだして、ビンやグラスを片手に笑み満面。その途端、アフリカの黒人と黄色人種の私たちが入っていくと、奇妙な取り合わせだと写ったのだろう、皆の奇異な視線を浴びながら、カウンターでビールを買って仲間になった。

Reikoblog05joansan  あっちのテーブルの人、こっちのテーブルの人と目が会うたびに、にこやかに笑顔でハローと挨拶をし、こちらも必死での努力だったが、本当は怖々だったのだ。

 ビールが半分ほど減ったところで、せっかくだから記念写真を撮ろうということになり、それでもと、カウンターのバーテンダーに、写真をとっても良いかどうかを聞いたら、もちろんと、笑顔で答えてくれて、胸をなで下ろした。

 斜め前のテーブルで、仲間と楽しく語り合っていたトレス海峡諸島の先住民である女性がビールのボトルを持って、私のところに近寄ってきたので、すかさず私は「日本からやってきたレイコです、初めまして」と親しげに話しかけた。

 あちらも気をよくしてくれたのか、「私はジョアン、よろしく」と会話が続き嬉しくなった。「一緒に写真に入らない」との私の呼びかけに、オブコースとビールの力もあったのだろう、嬉しくて一緒に記念写真を撮った(写真下・ジョアンさん右端)。

35年オーストラリアを行き来したが、今回初めて〝民族〟の真実をしった

 先住民には二つの系統があり、その一つはオーストラリア先住民(Aboriginal Australian)で、ネグロイド(類黒色人種群)系の特徴である幅の広い大きな口と鼻を持ち、同時にコーカソイド(インドヨーロッパ系)系の特徴であるウエーブのかかった波状毛、毛深い顔や体、太い眉をしている。大陸に住んでいた彼らはオーストラロイド(類オーストラリア人種群)と呼ばれ、独立した人種集団と考えられている。

 もう一方はトレス海峡諸島先住民(Torres Strait Island Indigenous)でトレス海峡諸島に住んでいて、肌の色が濃く、背が低く、髪が縮れ、ネグロイド系の特長を備えるメラネシア(南太平洋の経度180度以西の諸島)系の先住民である。そして、現在では、彼らの民族旗が政府により、オーストラリアの国の旗としても認められている。

 私はオーストラリアに過去35年間頻繁に行き来しており、その昔、シドニーの中高等学校の先生をしていた時に、修学旅行でこの大陸を1万キロ、延べ3週間かかったキャンプ旅行の引率をしたことがある。

 その際に、実はキリスト教団体がオーストラリア先住民を集めて、彼らの自立支援のための援助活動をしているミッショナリー(布教活動所)に、生徒を連れて尋ねたことがあった。その当時は、学校でも先住民とはアボリジニであるという教育がなされていた。

 時代が変り、今回、いろいろ勉強をして下調べをしたために、このトレス海峡諸島民といわれる先住民の存在を初めて知ったのである。 (5)につづく

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オーストラリア先住民との出会い(5)

オーストラリア先住民との出会い

――「オーストラリアは私の国です」とジョアンさんは話してくれた

中村禮子(なかむられいこ)(2009年4月投稿)

ジョアンさんとの出会いと帰国後のメールの交換

Reikoblog06rengaart03  トレス海峡とは、大陸の東側の北端に突き出たヨーク岬とパプアニューギニアの間にある海峡のことで、その辺りの島に住んでいた先住民の一人がこのジョアンさんだった。

 先住民に会う時は、目を見てはいけないとの注意を受けてはいたのだが、人とのやり取りでそういうことに慣れていない私は、ジョアンさんとバッチリ目を合わせての会話になってしまった。

 ワハハと大きな口をあけて笑う彼女にとても好感をもてた。蛇足だが、素晴らしく真白な歯が印象的で、全く虫歯もない健全な歯だなと、喉まで見せてもらって感心したほどである。

「一緒にとった写真を送りたいので、アドレスを教えてくれる」

「もちろん」

と、私の手帳に書いてくれた。メールアドレスも住所も教えてくれた。

「何しているの」と聞くと「図書館の司書をしてるの」と快活に話してくれた。

 その時には自然にお互いが手を握っての会話になって、とても嬉しかった。「絶対に送るから待っててね」、といってパブを後にした。知り合いができて、とてもほっとした。緊張する必要もなかった、と帰りは気分が良かった。

オーストラリアは私の国です、果てしなく広がる広大な平野と美しい太陽の輝きが素晴らしいのよ

 日本に戻り、彼女にメールでその時のたった一枚の写真を送った。すぐに返事が来て、あの時の写真ありがとう、とっても嬉しかった、と弾んだ心が伝わってきた。多分、彼女にとって初めて出会った日本人であったであろう私。トレス海峡諸島の人とはじめて知り合いになって、そして、メールのやり取りはいまだに続いているが、彼女から最近いただいたメールの文章の中に、こんなことが書いてあった。

Australia is my country a land of sweeping plains and the beautiful rays of sunshine it is okay.
オーストラリアは私の国です、果てしなく広がる広大な平野と美しい太陽の輝きが素晴らしい。

 この文章に彼女の先住民としての素晴らしいプライドが凝縮されていて、私は深く感動し、慌てて、オーストラリアは素晴らしい国、私も大好き、と返事を打った。

 トレス海峡(南北150km、東西200~300km)には多くの小さな島があるが、そのうちの12の島に人が住んでおり、よく知られているのはプリンスウエールス島と木曜島である。

日本と関係の深い歴史をもつトレス海峡諸島

 この地域はアコヤ貝(真珠貝)の生息地で、昔は貝ボタンのための漁業が盛んであった。特に日本によく知られている木曜島には、三重県や和歌山県から多くの真珠ダイバーが渡っていき、島の人々と結婚しているため、日本人との混血の人が多い。

 会議で出会った、ロンダ シバサキさんはご主人が日系人なので、柴崎という苗字だった。本人は、マレー人と日本人とトレス海峡諸島先住民の混血だといわれたが、顔はアジアの色が強かったし、身体も日本人のような感じで小柄でスマートで、とてもオープンであったので好感がもてた。

 彼女は、クイーンスランド州政府の高官でオーストラリア先住民とトレス海峡諸島先住民の健康管理に携わっている。会議での話し振りや私たちへの対応が実にきちんとしていて、素晴らしい方だった。一緒にお茶を飲んでのおしゃべりでは、自分のおじさんが和歌山県の新宮市に住んでいるので、日本にも行ったことがあるそうで、現在、自分は家系図を作るべく作業を余暇にやっているが、写真の裏には日本語しか書いてないので、難儀をしていると。

ロッド首相が〝失われた歴史〟に対し公式謝罪を宣言

 1993年には先住民の先住権が認められ、先住民居住地域の所有権も認められている。また、2008年2月13日、労働党のケビン ロッド現首相が、先住民の子供たちの多くが犠牲になった、あの“失われた時代”に対しての公式謝罪を、先住民族に対して宣言されたことは、記憶に新しい。

Reikoblog03gonbrasan02_4  そして、ゴムブラさん が、ポツリと言われたことは、

また、1000ドルもらえるんだよ、だけどなー

……もらえないより良いけど

と、それ以上多くを語らなかった。

 今では、政府が先住民の保護政策を掲げて活動をしているが、深い心の傷を持つ人々が、このような社会の中で、生きていく気を無くすのも、当然なことである。また、生活保護のお蔭で、たやすくアルコールの入手もできる。

 ただし、先住民居住区に、アルコール飲料を持ち込むことは法律で禁じられ、それを犯すと罰金である。それは彼らの伝統の中には、飲酒文化がなかったことから、遺伝的にアルコール分解酵素が全くないか、極めて少ないので、少量のアルコールで泥酔しやすいからである。今や先住民の間では様々な社会問題、健康問題と共に、とくにこのアルコール問題も大きな難題になっている。

かつての白豪主義は影を潜めているけれども

 かつて白豪主義を掲げ、有色人種移民を拒否していたが、1970年代以降は多くの移民や難民を受け入れて成長してきたラッキーカントリー、オーストラリア。

 2000年のシドニーオリンピックでもアピールされていたが、すでに白豪主義の様相は消えてしまったかのように、現在は正に複合民族国家としての文化の多様性を持ち、あらゆる宗派のキリスト教会、回教寺院、仏教寺社、ヒンドゥー寺院などなどがあり、肌の色も言語も様々で本当にいろいろな人たちが生活をしている。

 それは2100万人の人口の25%が、外国生まれであるという事実からもうかがえよう。そして、私たち日本人に対しても寛容な受け入れをしてくれていると、感謝している。

 参考までにオーストラリアについての一面を物語る、興味深い調査結果を紹介したい。

 ウエスタンシドニー大学のケビン ダン教授がオーストラリアの大学のオーストラリア人1万2500人を対象として、10年間行われた人種差別アンケートの結果が2008年に新聞に掲載されていた。

○先住民、イスラム教徒、黒人に対する差別意識が根強い。
○白豪主義的人種差別意識が残っている。
○10人に一人は人種至上主義者である。

 また、ニューサウスウエールス州(シドニーがあり一番人口の多い州)の回答者のうち、46%が特定の民族は今のオーストラリアに相応しくない、10%が異民族間結婚を認めない、また、10%が全ての民族が平等でなく、自分たちより劣る民族がいると、答えている。

同じ地球上に起こった歴史的事実を風化させてはならない

 オーストラリアの大地には、こんなに悲しい歴史的事実が刻まれている。私の心の底に焼きついた、その重さを感じながら、朝の光が新鮮に輝く9時過ぎのフライトに乗る。

 西へ果てしなく広がる、広大な大地は太陽が高く昇ると紫色に染まる。その大陸の中央には先住民の言葉で“ウルル”と呼ばれる、あのエアーズロックが太古の昔から変ることない姿で残され続けている。それは何よりも大切な先住民の聖域である。傷ついた先住民たちがどんなにか、そのウルルに心を傾けたことであろうか。その心の痛みを持ちながら生きている先住民の姿が、窓越しに幾重にも重なっていた。

そして、夕方にはフライトは成田へ到着。そのまま、日本の生活の中にすっぽりと戻っていく自分の心の中に、この先住民との出会いは生き続けている。同様な悲劇はこの地球上の、あちこちの先住民たちにも起こったことを思うにつけ、風化させてはならないと、こうして筆をとることにした。 終わり:(1)に戻る

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冬でも氷の話題です―古代氷室研究家・川村さんからのおたより

Kawamura070223himuroyoko 夏の氷室の祭事は冬の氷の蔵入れ儀式から始まります

 古代氷室研究家の川村さんから復元氷室の氷り入れの貴重な画像を送っていただきました。

川村和正さんからのおたより

 その後、いかがおすごしですか。先日2月15日に、奈良県のK小学校で3回目の復元氷室への氷入れが行われ、招待されたので見学してきました。

   過去2回は7月中旬残り氷はゼロでした。小学5~6年生の理科実験ですから、大規模Kawamura070223kouriire5_1にできない制約があり、15kg×20個=300kgしか貯氷できません。しかし、熱意に打たれ、父兄で建設業者の方がボランテイアで画像のような新氷室を設営されましたので、今年こそと期待されます。

写真上:新氷室の全景

写真中:氷り入れ

Kawamura070223iriguti写真下:新氷室入り口

なお、新しい氷室の建設に当たってK小学校の生徒3人が文章にまとめた「三代目葛氷室」のPDFファイルがありますので、ご覧ください。

「kawamura070223-01PDF.pdf」をダウンロード 

★また、氷室や氷の歴史については、川村さんの論文やMANA(なかじまみつる)のエッセイなどいろいろなかたがたが執筆されている「氷の文化史」サイトを「MANAしんぶん」に設けていますのでご覧になってください。

By MANA(なかじまみつる)(C)、川村和正(C)

MANAしんぶん「氷の文化史」サイト目次:

http://www.manabook.jp/essay-icemanlibrary-index.htm

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エコラベルってなあに?

自然産業の可能性と水産エコラベル

 アミタ㈱持続可能経済研究所の主任研究員・田村典江さんに、「エコラベルってなあに?」と題して、お話を伺いました。これからの水産業、とくに沿岸漁業者にとっても自らの生産物に対して環境負荷を小さくしています(「環境にやさしい」)ということを消費者に伝え、理解してもらうことが経営改善にもつながる時代になったのです。沿岸漁業がこれからどのように向かうべきかの提案を、わかりやすい事例を交えて解説をしていただきました。

 私が取材構成をして載せている「漁協と共済」2007年2月号「リレートーク」から、一部加筆してPDF化したものです。関心のある方は、ダウンロードしてお読みください。

田村典江さんに聞く「わかりやすいエコラベル」

MANA(中島 満)(C)

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浜本幸生さんの著作一覧

浜本幸生さんの履歴・著作活動一覧

[NEWSLETTER 第1号 2000年1月 特集・『共同漁業権論』と著者・浜本幸生]より

 1999年11月に発行した『共同漁業権論』は、総ページ800ページを越え、価格も1万8900円という価格にもかかわらず、制作者の意図に反し、意外にもその反響は大きく多くの読者の獲得し驚きました。500冊印刷し、すでに20数冊が手元に残るだけになっています。本書を紹介していただいた新聞・雑誌など書評から主なものをMANABOOKニュースレターで転載し、同号を浜本幸生追悼号として、本書発行を見届けるように亡くなられた著者浜本さんへの追悼文及び業績集を掲載しました。

 本ブログでも同内容を見ることができるように、ホームページサイトに入れるリンク(目次)を以下に載せました。

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も く じ[浜本幸生先生追悼:「共同漁業権論」紹介記事と浜本幸生業績一覧] 

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「なぜいま最高裁判決批判の書なのか」 編集子

書評「共同漁業権はほんとうに入会的性質を失ったのか」 佐竹五六

追悼/朝日新聞「惜別」より 篠島真哉   

追悼/浜本幸生さんのこと 熊本一規 

「資源の保護管理は誰のためにするのか」 編集子

「浜本幸生氏業績集」 田中克哲・中島満

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